閑話5
ハジメから受け取ったカップを口元に持っていって傾けると、まろやかな口当たりと共に、苦い味が口の中に広がる。そして苦いだけではなく、どこか甘い香りも同時に感じ取れた。
後味はすっきりとしていて千夏でも飲みやすい、ハジメが千夏のためにわざわざ取り寄せてくれている銘柄だ。
ほう、と漏らしたため息が一つ、湯気と混ざり合って消える。
学校から帰ってすぐに着替えて、二駅先のレストランでディナーを終えた千夏達は、夜、ハジメの家に帰ってきていた。
ホワイトデーでせっかくだからとハジメが予約してくれたお店はとてもお洒落な雰囲気のイタリアンレストランで。先だってハジメの叔父さんにご馳走してもらった程には格式は高くないものの、随分と店員さんが気を遣ってくれたのかサービスが行き届いていて、千夏としては驚きながらもその美味しさに舌鼓を打ったのだった。
帰り道で気になってハジメに聞いたところ、あのお店はオーナーが相澤の家の系列企業らしく、その紹介だったからこそサービスも良かったんじゃないかな、ということで千夏は納得する。
イベントでこうして二人で外で出かけるのもとても楽しい。ハジメが自分の事を大事に想ってくれているのは疑う事も無いが、それとは別にこうして形として見せてくれるのを嬉しいと思う。
勿論、その後にハジメの家でこうして珈琲を並んで飲むのも幸せだった。
ソファに座って、手を伸ばせば届く範囲に恋人がいて、目が合うと笑いかけてくれる。
(あぁ、いいなぁ)
そんな事を考えていると、スマホが震える。
母親の涼夏には、今日は帰ってこないつもりでいるから帰るなら連絡ちょうだい、と朝言われていたが、何かあっただろうかとスマホを手に取り、その内容を見て、即座に了解の意を送る。
今来た内容と、それが投下されたグループで、きっと落ち着くところに落ち着いたのだと、そう思った。
「あれ? なにか嬉しいことでもあった?」
それを見て、ハジメが尋ねてくるのに頷いて、千夏は答える。
「ゆっことイッチー君は正式に復縁して、恋人同士になったって」
「あ…………それは、おめでとうで良いのかな?」
少し濁した感じになっているのは、ハジメも千夏同様に早紀と優子、イッチーの事情について知っているからだ。
千夏も優子個人とのメッセージで連絡が来たのであれば、同じことを思っただろう。
「……ふふ、ゆっこからのメッセージは、うちと早紀とゆっこと玲奈の四人のグループに来たんだ、そして、早紀が、ゆっこのおごりで今度デザート食べ放題だって、メッセージ送ってる」
そう告げると、ハジメは少し考えて、ホッとしたように微笑んだ。
千夏は、そっとカップを座卓に置くと、ハジメに身を預けた。何となくそうしたい気分だったのだ。
それをハジメも察したように柔らかく抱きしめてくれる。
「本当に良かったぁ」
ハジメの胸に顔を押し付けるようにして、それだけ呟く。
もうすぐ、学年が変わる。
その前に色々と決着が付いて良かったという思いと、そして、変わらず一緒に遊べる関係で在れそうという安心に、今日の幸福感が合わさって、ただ抱きしめてもらいたくなったのだった。
「来週で高校一年生も終わり。春休みの後はクラス替えか…………千夏と一緒になれるといいけれど」
ハジメがそう呟く通り、千夏もそうなれればと思っているが、確率は二分の一だった。
千夏達の高校は、高校一年生は基礎的な教科として差が無いものの、二年生からは理系と文系でクラスが分かれることになる。理系が二クラス、文系が三クラスの五クラスである。
ちなみにハジメと千夏は理系だ。これは同じクラスになりたいからというわけではなく――いや、それも大事な要素の一つだが――ハジメは情報系に進みたいらしく理系。千夏はというと、数学の方が得意だからという理由で将来の何かの為では無かったりはするが同じく理系を選択していた。
玲奈は法学部志望ということで文系、優子は経営を学ぼうかなぁと同じく文系。
早紀は実はスポーツ科学の理学療法士になりたいらしく、理系であることがわかっていた。
「玲奈とゆっことは絶対違って、ハジメと早紀とは半々かぁ……ハジメは相澤やイッチー君のことは聞いてるの? 後まぁ石澤も」
「真司もイッチーも文系じゃないかな。真司はどっちでも良いけど経済学の方に行くって言ってたし、イッチーは理由は聞いてないけど文系って言ってたような……? 後石澤は理系だね、就職に有利な方とか言ってた」
「そっかぁ、とは言ってもハジメは元々同じクラスじゃないもんね……あぁどうしよううちだけ別のクラスになったら…………」
クラス発表は始業式で行われるので、悩んでもどうしようもないのだが、考え始めると不安になってしまう。
「…………少し人気が出てきたハジメに誰がが近寄ってこないかが心配」
「いやいや……それを言うなら僕のほうがでしょ、千夏人気者だし」
ポツリと呟いた千夏に、ハジメは心外だというように言った。
まぁ半分、いや、四分の一程は冗談だが、不安になるものはなるのだ。
「……うぅ」
「今からそんなに悩んでもしょうがないって。まぁ一緒になれると嬉しいけど、そうじゃなくてもお昼とかは一緒に食べられるしさ…………それに、はい」
そう言って、ハジメが後ろ手に千夏に渡してくれたのは、可愛くラッピングされた四角い箱だった。
「え? レストランがお返しじゃなかったの?」
「そうだけど一応ね、マカロンなんだけど、常温が美味しいらしいよ?」
マカロン。
ホワイトデーのお返しの意味は、『あなたは特別な人』。
意味をわからずに渡す人じゃない事は知っていた。
「えへへ…………ねぇハジメ、大好きよ?」
「…………」
真っ直ぐに見つめて、目一杯微笑んで言うと、ハジメは目をそらして少し無言になる。
相変わらず照れ屋なのに、でも、こういう風に愛情を形にして示してくれる。そんなところも、愛しくてしょうがなかった。
穏やかに二人の時間が流れていた。




