第1楽章 27節目
学校から出ようとしているのか下駄箱の方に向かっている優子を追いかけて、もう殆ど生徒もいなくなった廊下を走る。
球技などは得意ではないものの、優子は意外と足が速い。
少なくとも昔のちびだった頃の俺は追いつけなかった。それが逆転したのはいつの頃だっただろうか。
でも、今の俺なら追いつける。女子トイレとかに逃げられなくて良かった。
そんな事を考えられる冷静さと、ただ何かを叫びたいような熱さが心の中に同居していた。
「優子!」
追いついたのは、下駄箱の前だった。それでも逃げようとする優子の手首を掴んで、何とか止める。
「…………はぁ、はぁ」
息を切らせた優子は、俺に手を握られたまま俯いて震えるようにしていた。
そんな優子を、俺は衝動的に手を引くようにして抱きしめると、小さな体躯が腕の中にすっぽりと収まる。
「……捕まえた」
「何で来たのよ…………それに足早い、ずるい…………離れてよ」
弱々しい抵抗と共に、優子がそう呟く。
俺は、それに答えないで、一言だけ言葉を発した。
「いやだ」
「っ…………な、んで」
「だって優子、まだ離したらきっと逃げるから。こんなタイミングになっちゃったけど、今日話がしたいと思ってた」
まだ、腕の中で抵抗しようとしている優子を感じる。
だから、最初にちゃんと言いたいことだけ言ってやろうと思った。
本当は、もっとちゃんとした場所で、ちゃんとした言葉で話を始めたいと思っていたのだけれど。
でもどうも神様っていうやつが居るとしたら、俺には、俺たちみたいなモヤモヤした関係のままヘタれていた二人にはそれは許しちゃくれなかったらしい。
「なぁ優子、俺さ、今度はちゃんと考えたし、自分を持って話すから。逃げないでほしい。…………離すから」
俺がそう言うと、優子はどこか諦めたように力を抜いて、わかった、と言った。
それを聞いて、腕を解く。
少し離れて、初めてようやく俺の方を向いてくれた優子の顔は、泣き顔でぐしゃぐしゃだった。
なのにそれでも、その泣き顔にすら俺は惹かれてしまう。業が深い。自分でもそう思うけれど、きっと物心ついた頃からそうなのだから仕方ない。
「…………わかったけど、いっくん、でも流石にここは嫌」
優子がそれだけポツリと言うのを聞いて、俺はこんな時なのにふっと笑いが出る。
今は偶々誰もいなかったが、流石に学校の下駄箱の前でする話では無いのは確かだった。
◇◆
二人で歩いて邪魔が入らないところを探す。
校舎の裏手の方、こんな時に役立つとは思っていなかったけれど、俺は何度かそういう場面で呼び出されたお陰で、学校の人気のない場所には詳しい。
――――それに、呼び出し理由としては、同じだ。
走っていた時なんかよりも、余程心臓の音が五月蝿いのは一体どうなっているんだろうか。
こんなに頑張って脳に血液を送らなくていいのに、これ以上緊張したら、言えるものも言えなくなってしまうじゃないか。
中学の最初も、こうして優子に想いを伝えた事があった。
でもその時とは圧倒的に違う。身体だけじゃなくて、心も。
「…………ねぇ、早紀ちゃんとは?」
「部活が終わった後話をして、ちゃんと断った」
「そっか……」
優子は黙って付いてきてくれて、一番最初に口を開いた言葉がそれだった。
そして答えを聞いて、それ以上は何も聞くことはなかった。
だから、俺の方からも、自分の話をする前に伝えないといけないことがあった。
「……優子に藤堂から伝言がある。そのまま言うよ?」
「え?」
「『私はちゃんとわかってる。わかってる上で優子の友人のつもり。後、何かご馳走してもらうから』だそうだよ」
「……っ、嘘…………それなのに、あんな風に走ってきてくれて、怒ってくれてたの? それって、そんなの――――」
それを聞いて、目を見開いた優子はそう呟いて、そしてしゃがみ込んだ。
咄嗟に支えようかとして、止める。ただ、待っていることにした。
まだ、俺は藤堂の言葉を伝えただけで、優子はそれをちゃんと受け取っただけ。
そこはきっと、俺と優子の物語じゃない。
「この一年、早紀ちゃんに言わなきゃってずっと思ってたの…………でも、時間が経つごとに言えなくなっていって。自分の中での気持ちに向き合った後も、もう言うべき時は無くなってて」
そうして優子が立ち上がって、言葉を発するまで、俺は待っていた。
「うん」
「早紀ちゃんのいっくんへの気持ちはずっと前から聞いてて、本当ならさ、それこそ幼馴染として、取り持ってあげるとかするのが友達としては正しいんじゃないかなって思いながら、流石にそんなに割り切れなくてさ」
「…………」
「自分の中でももうよくわからなくなっちゃってて、だからさっき教室で言われたことも、全部自分のことなのに、そうだよね、って思う自分も居たんだよね。そんな時に二人共来てくれて、初めてだったよ、頭が真っ白になるってああいうことを言うんだね」
そう言って、暗くなって来た空を見上げるようにして、あーあ、と優子は言う。
それを見て、俺は肩を竦めるようにして言った。
「優子ってさ、昔からそういうとこあるよね。色々気づいて、読み取って、自分の中で解決しようとしちゃうんだ…………だから俺は、優子が凄いやつだって思ってた」
「ふふ、何それ。…………全然凄くなんかないよ、凄いのはいっくんの方。努力して、才能もあって、凄く人気者じゃない」
凄いと言った俺の言葉に、優子は首を振って、そう告げる。どこか寂しそうな顔で。
「それもさ、いらないって思ってた」
そんな顔をさせるくらいならと。
何のために頑張っていたのか意味が無いじゃないかと。
「え?」
「そんな、他人からの人気とかで、優子が離れていく位なら、疲れさせるくらいなら、いらないって思ってた」
俺は、本当なら去年伝えるべきだった想いを、取り戻すように言葉にしていく。
それを聞いて、優子は益々哀しげな表情を浮かべて。
「…………うん、だから私は――――」
「でも、今は違う」
何かを言おうとした優子に、否定するように俺は遮って続けた。
「多分さ、こんな風に、ちゃんと思ってたこととか、感じてたこととかを、言葉にしないで、お互いにわかったような気分でいたからいけなかったんだと、思ったんだよね…………」
「いっくん?」
俺の言葉に、優子は何かを感じ取ったのか、疑問を言の葉に乗せるようにして名前を呼ぶ。
長い付き合いだから、勿論それで伝わることもある。
でも、全てが伝わるわけじゃ勿論無いのに、そんな事も俺はわかってなかったんだ。
「藤堂って凄いやつだよな。俺が言ったら駄目なのかもしれないけど、めちゃくちゃ良い子だと思うし、尊敬できる。……色々短い間だったけど、俺、藤堂から学んだことがあるんだ」
「…………」
「藤堂ってさ、凄い真っ直ぐ、ちゃんと言葉で伝えてくれるんだよね…………良いと思ったことも、嬉しいと思ったことも、感謝の言葉も、悲しいとか嫌だとか思ったことも」
「……うん」
優子のほうが余程藤堂との付き合いは長いし深い。
思い当たる節があったのだろう、そう頷いた。
「それって、当たり前のことのようで、俺全然出来てなかったなって思って…………分かった風に思ってちゃんと聞かなかったし、ちゃんと言葉にしなかった。ヘタレって言ったらそれまでだけどさ、言おうともしてなかったのは、ヘタレですらなかったんじゃないかなって、考えるようになった」
「……いっくん」
だから、俺は優子の目をちゃんと見て――――。
「あのさ…………俺はやっぱり、優子が好きだよ。ずっと、ずっと好きなままだよ」
最初に、一番ちゃんと言っておかないといけない、大事な事を告げた。
忘れられない子がいるとか、好きな子がいるとか、そんな間接的な伝わり方じゃなくて、ちゃんと、目の前で、言わなければいけない事だと、そんな当たり前の事から改めて始めないといけないとそう思ったから。




