第1楽章 26節目
優子に絡んでいたのは、やはりと言うべきか、バレンタインデーの日に目撃してしまった彼女だった。
放課後の教室での対峙なんて、まるで物語のようだと早紀は思う。
「……藤堂さん、貴女。櫻井さんをかばうわけ? 知らないのかもしれないけど――――」
「知ってる。多分そっちよりもずっとね」
名前は確か加納ヒカリさん、だったはず。
初めて交わす言葉がこんなやり取りで残念だ、早紀はそう思った。
きっと今の彼女は、そう在ったかもしれない私だ。
違うのはきっと、その場限りの共感を言ってくれる人しか居なかったか、不器用でも本音の格好いいを言ってくれる人が居たかの違いだけ。でもそれも結局のところタイミングでしかないだろう。
しかし、理由はどうあれ友人にあんな顔をさせてくれた落とし前くらいはつけさせて貰わなければいけない。
本当なら、私は今日晴れやかに帰れたはずなのに。その八つ当たりの気持ちも少しはある。
でも、ただそんな感情をぶつける気にはなれなかった。
「どうしてよ? いっそあの子じゃなくて貴女にだったら少しは……」
だから早紀は、理解できない、といったような彼女に向けて、言葉を紡ぐ。
「知ってる? 優子はね、良い子なのよ? 誰かが体調が悪かったりしたらすぐに気がついてフォローしてくれるし、機微にも敏いから、ちょっとした悩みとかがあれば、それとなく気にかけてくれるのよ。でも優しいけど弱いわけじゃない、私や千夏がちょっと目立ってるのは否定しないけど、私と千夏と玲奈がこうして仲良くしてられるのも、結構優子のお陰だったりするのよね」
「何を言って……」
「ただ、敏すぎるのと優しいのはいいところなんだけど悪いところでもある。そのせいで、変に自分で自分に枷を掛けちゃってね、だから私みたいな子がイッチーの事を好きだって言われると、応援してくれちゃうわけ……流石に、過去にあの二人に何があったかも無かったのかも詳しくは知らないけれど、もしかしたら似たような理由だったんじゃないかな。あれでイッチー、結構ヘタレだしそのせいかもしれないけれど」
少し笑みを作って、続けるのに、加納さんは首を振る。
「……何なのよ、そこまで知ってて何で笑えるわけ!?」
「最初は打算とかもあって付き合いが始まったかもしれないけど、一年間かけて友達になっちゃったから。イッチーを好きな自分は自分として、私は優子の事も好きなのよ…………それにね、もう、自分の心の激情みたいなので、友達と揉めるのは懲り懲りなの。加納さん、今、凄い自分が嫌な気持ちでしょう? 解るわ」
「…………」
早紀はそう言って加納さんの目を見た。
その瞳は揺れている。多分、一番その気持ちを理解してあげられている自信があった。
でもその上で、早紀は言う。
「だから私は、あんたと一緒にはなってあげられない。ちゃんとみっともなくてもイッチーに伝えて、全部話して、その上で駄目って言われたんだから。これ以上の恥は晒せない。私、プライドは高いの」
「…………理解できないわ。貴女を見てたら嫌な気分になる。でも――――」
早紀の言葉に、それだけ言って、加納さんは背を向けた。
その先の言葉は聞き取れなかったけれど、きっと。
「ヒカリちゃん?」
「ごめんね付き合わせて…………藤堂さん、櫻井さんに、言い過ぎたって言っておいてもらえるかしら。もしも許してくれるなら、直接謝りたいと」
「いいわ」
誰しも、わざわざ格好悪い自分になりたいわけじゃない。
でも、それでもそうなってしまうから、恋というものはこんなにも沢山の人の心を揺さぶるのだろう。
――それがうまくいくことの尊さを知っているからこそ。
教室から去っていく彼女たちを見送る。
文句を言ったわけでもないけれど、これでいい、早紀はそう思った。
◇◆
和樹は藤堂と女子たちの会話をただ聞いているだけで、かといって立ち去るわけにも行かず、その様子を一歩離れた場所で見ていた。
そして、教室に藤堂と自分以外に誰も居なくなって、無言の時間が舞い降りる。
「……あのさ、藤堂」
おずおずと、声をかける。
何となく、聞いてはいけない部分まで全部聞いてしまった気がするけれど、目の前の凛としているように見える藤堂が、どこか、無理をしているようで。
いや、無理をしていないわけが無かった。
「…………大丈夫、か?」
和樹は声をかけた後の自分の語彙力に絶望する。
大丈夫じゃないやつにかける言葉として、もっといい言葉があるはずだった。
「何よ? 心配してくれてんの?」
なのに、ふっと笑みを浮かべて、藤堂は和樹の方を向いた。
綺麗な顔だった。
モデルのような、という形容詞がピタリと当てはまる。
「……藤堂はこの後、どうするんだ? イッチー達を待つのか?」
「どうしようかな、聞きたい気もするし、顔を見て帰りたい気もする。でも、何も聞きたくない気もするし、今日は顔を合わせたくない気もする」
「…………」
「そっちから話しかけてきておいて、無言で返さないでよね……」
「わりぃ……まだまだ修行不足でさ」
和樹は、はは、と苦笑いする。
ここで、佐藤や佐藤の叔父さんであれば、いい感じのことでも言えるのだろうか?
いや、でも積み重ねだと聞いたのだ。きっと敢えて良いことなんか言おうとしなくてもいい。ただ、相手の事を気にかけるのは別に恥ずかしいことじゃないのだから、そのまま言えば良いのだろう。
「あのさ、藤堂」
だから和樹は、笑う藤堂に改めて声を掛けて言った。
「ん?」
「さっきもやっぱり、藤堂は格好良かったよ…………でもさ、あんまりその、無理すんなよ? 藤堂は凄いやつだけど、辛い時は辛いで良いと思うし…………」
「…………っ」
藤堂はそれに下を向いて黙り込む。
「えっと……何かごめん」
それを見て、何かまずったかと和樹は少し焦って藤堂の顔を覗き込もうとするが。
「あーほんとさ…………やめてよ。いつも空気読めないことばっか言って軽いくせにさ、こんな時だけ――――」
藤堂は、顔を背けるようにして続けた。それは震えるような声だった。
「こんな時だけ、普通に優しいって感じること言わないでよ。ずっと我慢してたのに、泣いちゃうじゃない。…………絶対泣きたくなんか無いのに、泣いちゃうじゃない」
和樹と藤堂以外誰もいない教室の中で、強くて綺麗で、格好いいと思っていた彼女が急に、物凄く弱々しい人になった気がした。
そのまま再び、無言の時間が過ぎていく。
そんなに長い時間ではなかったはずだった。数分にも満たないだろう。
先程までは聞こえていた吹奏楽の演奏も、生徒たちの喧騒もほとんどなくなり、何か分からない鳥の鳴き声だけが聞こえていた。
「…………こういう時はどうしたら良いんだ? 慰めりゃいいのか?」
ふう、と藤堂が深呼吸をしたのが聞こえて、和樹は無言を終えるために冗談のように、何となしに口を開く。もしかしたらずっと黙っているべきだったのかもしれないが、何となくもう無言ではない方が良いのではないかと思った。
「ばーか。そういうのは黙ってやった方がポイントは高いのよ……」
それに、藤堂がクスリと笑って言う。
「……難しいな」
和樹もまたそう言って、藤堂と顔を見合わせて笑った。
少しだけ、藤堂が近くなった気がする。
「あぁでも、久々に泣いた。化粧崩れたからあんまこっち見ないで…………それにしても優子達、戻ってこないわね。優子の鞄ここにあるのに」
「もし藤堂がこのまま待ってるなら、俺も居るわ、でも腹減ったな。…………あ、そうだ」
「なんなの?」
自分の待つという言葉と空腹で、和樹は昼からバタバタして忘れかけていた本日のイベントを思い出した。
「これ、藤堂に渡そうと思ってたんだった、バタバタして忘れるとこだった」
「クッキー? これ結構いいとこのやつじゃん、どうしたの? 何で?」
「バレンタインデーのキットカットのお礼。三倍返し」
「…………」
はい、と差し出すと藤堂が受け取ってくれる。
無言でいられると、反応が正直怖い。
和樹もこれでも結構迷ったのだ。
お礼のように渡してくれたものに、お返ししたらキモくないだろうかとか。
何もあげないのもなとか。じゃあ何をあげるかとか。
結局駅近くの洋菓子屋さんで手に入れてしまったが。
だが、それは杞憂だったようで。
「あははは、何でこのタイミングなの? 絶対今じゃないでしょ? 振られたばかりで、しかもその後に揉め事あってさ、その上変に泣いちゃって…………そんな後に。馬鹿、ほんとに馬鹿」
絶対笑う場面じゃないと和樹は思うのだけれど、こらえきれない、と言うように藤堂があはは、と笑った。和樹は何となく気恥ずかしくなって頭をかく。
そんな和樹を見て、藤堂はからかうように言った。
「…………何なの? あんたさ、まさかと思うけど私に惚れてでもいるの? 千夏派だったんじゃないの?」
「いやー、それは正直恐れ多いというか。というかもうその南野にってのも忘れてくれよ…………あーでも」
恐れ多いというのは本心でもあったが、一つ思いつくことがあった。
「……でも? 」
「藤堂みたいなカッコいいやつと友達になりたいとは思ってる」
「はぁ?」
そんな和樹としては勇気を出した台詞に、藤堂は気の抜けたような声を出した。
それにそうだよな、と和樹は思って苦笑して言う。
「あぁ、やっぱり精進が必要か」
「馬鹿、違うわよ…………いまさら何言ってんのって意味」
「え?」
意味がわからず怪訝な顔をする和樹に、藤堂は目元の涙の痕を綺麗な笑みの一部に変えて、言った。
「あのね。私はあんたのこと、もうとっくの昔に友達だと思ってるわよ」
何気なく言われたその言葉は、誰もいない教室の中で、和樹に驚くほどに優しい音色を響かせる。
これが積み重ねの何段目なのかはわからないけれど、今の放課後の瞬間を、和樹は忘れることはないだろう。そう思った。




