第1楽章 24節目
(何だか昼休みあたりから、視線の質が少し変な気がするな)
放課後になり、優子はそんな事を思う。
普段も偶に視線を感じることはあったが、それはどちらかというと早紀や千夏といる時の男子からの視線だ。今のように、少し粘性のある視線とは違った。
今日がホワイトデーということで、バレンタインデー程ではないが学校全体がイベントの日という空気はあったため、そのためだろうか、そんな事を考えつつ、否定する。
少なくとも、優子は誰にもチョコレートはあげていないし、変に反感を買うような何かをした覚えは無かった。でもこれはまるで中学の最後の頃のような。
(まぁ、考えすぎかな。今日っていう日だから、ちょっと感傷的になっているのかも)
もしかしたら、今優子が考えていることによる心境が齎した気のせいなのかもしれないと思い直す。
この一週間、優子は自分の気持ちというものに折り合いをつけるのではなくて、向き合う事を試みていた。カナさんに言われたのだ。
『あたしが今更言うのはなんだけど、別に嘘ついてもいいとは思うの…………でもね、嘘でも本当でも、優子ちゃんにとっての納得感が大事だと思うんだ、だから、嘘をつくなら自分にも納得させなきゃ』
納得感という言葉に、そうかと思わされた。
自分にも他人にも、全てにおいて正直で在れる人間なんてそうはいない。少なくとも優子には無理だった。
ただ、それでも、結局のところは自分で自分に納得いっていなかったのが良くないのだと。
きっと今日で、いっくんは答えを出すのだろう。
見ていれば分かった。いっくんは悩んでいた。
(逆に早紀ちゃんは、何ていうか物凄く自然体だった気がしたけど…………でもきっと、今日で二人はうまくいくんじゃないかな)
そう思っている。
普通に考えて、美人で趣味も合って性格も良い女の子が自分を好きでいてくれて迷っている方がおかしいのだから。
期間が空いたのは、いっくんの中で過去との折り合いをつける時間が必要だったのだと思った。
「…………結局ちゃんと会話できなかったからな」
ボソリとそう独り言を呟く。
千夏とハジメは、今日に関しては早々に二人で教室を出ていったし、玲奈も早紀も部活。今は優子は一人だ。
それでも帰ろうとしないのは、今日だけはきちんと見届けようと思っていたから。
部活が終わる時間になって、出るだろう答えを知って、その後一人で帰ろうと思っていた。
いっくんへの気持ちというものは認めた。その上で、今更という気持ちがある。早紀は勇気を出した。だから報われるべきだという想いもある。
折り合いではなく、きちんと向き合った結果。
優子は、改めて想いを告げないと決めた。そして、今日、きちんと恋を失うことで、止まった時計の針を動かすつもりだった。
奇しくも今日は一足早い春が来ている。
朝のニュースで、開花が三月十四日の今日であると流れていた通り、窓の外から見える学校の桜の木も花を咲かせていた。
そんな風に、一人で時間を過ごしていたときだった。
優子の元に、数人の女子がある質問と噂についてを聞きに訪れたのは。
◇◆
テナーサックスの音が聞こえていた。
吹奏楽部の誰かだろうか。最近流行っているアニメの主題歌を吹いているようだ。
早紀は部活の後、そんな音に耳を澄ませながら人を待っていた。
不思議と心は落ち着いていた。あの日、想いを伝えた一月前に比べて、早紀の心臓は一定の平穏なリズムを刻んでいる。こうして周りの音に耳を澄ますことができるほどに。
そうしているうちに、待ち人が現れた。
いつも通り、手足の長さが目立つスラッとしたスタイルに、驚くほどに整った顔が載っている。
そんな彼が何かを手に持って、こちらに向かって歩いてくるのを見て、唐突に早紀は悟った。
言葉をまだ貰っていないのに、何故かわかってしまった。
「呼び出したのに、待たせてごめんな」
イッチーがそのまま早紀に近づいて、申し訳無さそうな顔でそう言った。
「ううん、その、これはお互い様っていうやつだから。えっと、そうだよね?」
「……あぁ」
早紀がふっと笑ってそう言うのに、イッチーもまた短く頷いて、早紀の顔を正面から見た。
憧れていた、綺麗に整った顔。真顔だとモデル顔負けの大人びた表情に見える時もあるのに、いざ話して笑うと凄く子供っぽく見えることもある。
この一月で、見た目ほど完璧ではないことも、それもまた魅力的であることも知った。
そして、本当に悩んでくれていたのも、知っている。
(どうしてだろう…………凄くいっぱい、想像の中でもこんなシーンあったんだけれど。物凄く穏やか)
早紀は、自分でも意外なほど平静な心で、イッチーの前に立っていた。
先程、何故か悟ったことがきっとその通りなのだと、イッチーを見て分かる。
きっと、今日が最後なのだと。
自分は今からフラれるんだと、不思議とわかった。
「あのさ…………」
「うん」
まだ無人ではない校内の生徒たちによる喧騒と、まだ活動している吹奏楽部の漏れ聞こえる演奏が融け合うような放課後の音楽が聞こえていた。
そんな中で早紀の耳は目の前の彼の声以外をシャットアウトするように働き始めた。
きっとこれが、最初で最後の、初恋が終わる音。
イッチーが、すうっと深呼吸をして、言葉を紡ぎ始める。
「ずっと、藤堂にチョコを貰った日から、本当にずっと考えてたんだ」
「うん」
「俺は今まで、告白してきてくれた人をちゃんと見てこなかった。それは俺自身の事も、相手のことも見てないってことで、藤堂が俺のそんな目を開いてくれた。物凄く感謝してる…………だからさ、俺もちゃんと、短いなりにずっと考えて出した答えを自分の言葉で伝えようと思うんだ」
「…………ふふ、イッチー、大丈夫だよ?」
「え……?」
「私、ちゃんと聞くから。笑ったりもしないし、泣いたりもしない。ちゃんとここに居て、ちゃんと答えてもらうの聞くから、大丈夫だよ」
イッチーがこんなに緊張を顕にしているのを見るのは、初めてのことだった。
試合の時でも、それこそ大勢を前に話している時でも。
それが今はただ自分に言葉を伝えるためだけにそうなっていると思うのが、これから伝えられるであろう言葉とは裏腹に嬉しいと感じてしまうのはおかしいだろうか。
「ごめん……いやー、藤堂がめっちゃカッコイイってのに、俺はダサいなぁ」
「ふふ、ありがとう。それにちゃんとイッチーはカッコいいよ…………もしも気持ちが揺れてて、どっちにしようとかで迷っているならちょっと格好悪いと思ったかもしれないけど、そうじゃないでしょ?」
「それは…………あぁ、そうだね」
イッチーはきっと、気持ちが決まった上で、どう早紀を傷つけないでいられるかに迷っている。
それは甘さとかではなくて優しいからだ。であればそれは、別に格好悪い迷いではないと、少なくとも早紀は思う。
そして、早紀がそう思うのだから、誰が何と言おうとこの場ではそれが正しいのだ。
「…………」
そして、後は無言で待った。
「藤堂…………ごめん! ものすごく嬉しいし、藤堂のことを好ましいと思う! でも、俺は、その気持ちに応えられません。ごめんなさい!」
そんな早紀の無言に答えるようにして、イッチーはまっすぐに早紀の目を見てそう言った。
「ありがとう」
それに対して早紀の口から出た言葉は、その五文字だけだった。
感謝を伝えるものだと習った言葉に、こんなに沢山の想いを乗せたことは無かった。
言葉は不思議だ。
不確かで、不完全で、人から人に渡るごとに簡単に歪む。
時には捻じ曲がって変質してしまうし、気持ちを伝えるためのツールとしては未完成品なのだろう。
それでも今この五文字に載せた別れも、羨望も、喪失も。そして感謝も。
きちんと伝わった気がした。
だからだろうか。もう好きである事を辛いとは思わなかった。
そして、多分だけど私の方がイッチーのことを好きだったと思っていた。誰と比べてとは言わないけれど。
でも、結局のところ全ては、イッチー自身がどう思うかというそれだけの話で、早紀はその視界に無理やり入った身だったのだ。
今、早紀は笑顔でいると思う。
もしかしたら色んな感情が混ざり合ったような表情かもしれないけれど、早紀の中ではとびきりの笑顔のはずだ。
イッチーも早紀も、無言だった。
気まずくなるような一場面の後のはずなのに、想いを伝えて、きちんと返されたからだろうか。
早紀にとって、その無言は嫌なものではなかった。
だから、そのしばしの静寂が破られた時、少しばかりの憤りのような感情が早紀の中に生まれたのは誰にも責められるものではないだろう。
その憤りも、すぐに吹き飛んでしまったが。
「イッチー! って藤堂も…………あ…………」
静寂を破ったのは、何故か息を切らしていた石澤だった。
イッチーの名前を呼んで、そしてすぐ近くに早紀がいることに気づき、そのまま今がどの状態なのかを察した顔をする。
「石澤、どうしたんだ?」
「……………すまん、めちゃくちゃタイミング悪いよな、でも、お前に知らせないといけないことがあって、櫻井が大変だ」
イッチーが怪訝そうな声でそう尋ねるのに、石澤は息を切らせながら最初に謝って、その後に聞き捨てならない言葉を吐いた。
「え? 優子がどうかしたの!?」
早紀が割り込むようにして石澤に聞き返す。それに少し驚いたようにして、石澤はこちらにも答えた。
「何か教室で、イッチー絡みのことで揉めてるって。今日の昼のことで謝りの連絡入れてきてたやつが居て、俺に知らせが……」
「行こう! 行かなきゃ、イッチー」
早紀はそう口にしていた。
「藤堂…………えっと」
「良いのよ! 私知ってる、知ってるから! 石澤、教室よね?」
イッチーが口ごもるのに、早紀はそう短く言って、二人をみて促す。
考えるより先に、行かないと、と思った。
「あ、ああ…………っ! 俺も行く」
そうして三人は、放課後の校舎を、少ないながらの人の波に逆らうようにして教室へと走り始める。
変わらず放課後の音楽が鳴り響く夕暮れ、まだ今日という一日は終わりを告げないでいた。




