第1楽章 20節目
優子は少し深呼吸した。
そして、想像してみる。
ここで当たり障りのないように会話をして、何事も無かったように日々を過ごす自分。
早紀といっくんが付き合うことになったとして、良かったね、と祝福するであろう自分。
家同士の関わりがある幼馴染としての距離をうまく測りながら、仲の良いクラスメイトの距離を間違えないようにしながら、歩んでいくであろう自分。
そんな未来は簡単に想像がついた。
確かにそれは棘であり、後悔であり、そして、窮屈そうだとも思う。
でも、それが不幸なのかというとそんなことは無さそうだったし、カナさんの言うように爆発するような自分にはならない気がした。
きっといつか、優子にも誰か好きな人ができて、昔はそんな事もあったね、って思うようになるのだろう。よくある話。
そう考えて、自分の中での着地をしようとしてカナさんを見ると、カナさんが心配そうな瞳でこちらを見ているのに気付いた。
優子とカナさんの、目が合う。
「あのね、優子ちゃん」
そして、カナさんが優子の名前を呼んだ。
「はい、カナさん」
優子はそれに、首を傾げて答える。
「あたしは馬鹿だからさ、優子ちゃんのことはわからないよ? 悩みもいっぱいあると思う。……でもね、わからないけど知ってることがあるの。美味しいものを食べたら美味しいよね。面白い事を聞いたら面白いし、綺麗だと思うものを見たら綺麗なの」
「えっと、はい、そうですね?」
優子はカナさんが何を言いたいのかがわからなくて、曖昧な返事をする。
それに構わず、カナさんは懸命に何かを伝えてくれようとするようにして、言った。
「でもね、自分に何かで嘘を付き続けちゃうとね。美味しいものを食べても美味しくなかったり、面白い事を聞いても面白くなくなったり、綺麗なものを見ても、綺麗じゃなくなるんだよ? だからね、無理しちゃ、駄目」
それを聞いた時に、言ってくれたカナさんの目を見た時に、優子の中に何か暖かい気持ちが流れ込んできた気がした。
同時に、自分の中にある、窮屈さとか息苦しさと言い換えることはできるような、かと言って辛いほどではない、曖昧ななんとも言えないふわっとした感覚が、そっと包みこまれた気がした。
目の前の人に少しばかり甘えてみてもいい気が、した。
この、ほとんど知らない他人に対しても懸命に心配してくれようとしているお姉さんに影響されたのかもしれない。
いや、もしかしたら、少し嘘だと言ってくれたから、かもしれなかった。
わからないまま、優子は口を開く。
「……ありがとうございます。まぁ、正直相澤くんの見立て通りなんですけどね…………イッチー君、ううん、いっくんとは幼馴染で、中学の時までは付き合ってて、高校に上る前に別れたんです」
まずは先程相澤くんに言われたことを認めるところから。
「ふうん、何で別れちゃったの? 別に仲は悪く無さそうに見えるのになぁ……あれ? でもいっくんって確かあっちにいる背の高い爽やかイケメン君だよね? 早紀ちゃんって子と一緒にいる」
「そうですね、その辺も含めてになるのかな。…………その前にカナさん、お願いがあるんですけど良いですか?」
「ん? 勿論良いよ、なぁに?」
別れた理由をそのまま聞くのも、おそらく気づいたら、大抵の人は気まずくなって言葉を切るであろう事を口にするのも。
そして、お願いの内容を何も聞かずにあっさりと承諾するのも全て、きっと、カナさんの素なのだろうと思う。
色々と考えて、言葉を発する前に自分の中ですらフィルターのようなものがかかる優子とは真逆だ。それが好ましいと、優子は思う。
そんなカナさんを見ている相澤くんは、優子と同じタイプであるはずだ。そこは確信があった。
おそらく先程のように空気が変になったり、度が過ぎてしまう事があれば、機微の分かる相澤くんがが止めるか謝罪をするのだろうか。
そこには何か、ただの恋人だけではない信頼感がありそうで、羨ましいとも思った。
「…………もしも、私が言うことが嘘に感じたら、教えてもらってもいいですか?」
だからそんな二人に向けて、カナさんに向けて、優子はそうお願いした。
優子に根付いてしまった、自分宛てなのか他人宛てなのかもわからない、変なフィルターを介さずに言葉を発せるように。
「え? 良いの? 普通は嫌がられると思うんだけど…………ん? でもクイズでもないのに嘘をつくの?」
「なるほどな、面白い…………佳奈、言われたとおりにしてやれ、櫻井は壁打ちをしたいらしいからな。大丈夫、お前の好きな人助けというやつになんだろ」
カナさんが不思議そうに疑問の声を上げていたが、察した相澤くんがそう続けてくれた。こういう時に同じタイプは話が早くて助かる。
「壁打ち? でもわかった、それが優子ちゃんがしたいことなら全然オッケーだよ」
そして、そうカナさんが言ってくれたので優子は頭の中に浮かんだ内容を整理し始めた。
何から話すか、何を聞いてもらおうか。そう思った時、一つだけ先に聞いておきたい事があった。
「ねぇ、カナさん。さっき私が、他人の恋愛の方が良いって言ったのは、少し嘘って言いましたよね? 少しっていうのは?」
「うん、さっきはごめんね。……少しっていうのは、そうだなぁ。好きなものを嫌いっていうような嘘じゃなくて、もう少し誤魔化しみたいな嘘かなって感じたの…………でもなんて言ったら良いのかな? 小さいのに、何だか感覚が強い気がしてね……」
カナさんの言葉は曖昧で感覚的なものだった。でもなるほど、優子の中で少しだけ、腑に落ちた気がした。
優子は自分の中にあるこれを、きちんと見つめるところからしないといけないのだ。
(…………あぁ、怖いな)
「カナさんは、付き合ってる相手の気持ちが重いって思ったことはありますか?」
「うーん、そうだねぇ。あたしも相談なんて言って経験豊富なわけじゃないけれど…………いつもあたしの方が重たいのかも。真司だってねぇ、絶対あたしの方が真司の事好きだもんねぇ」
「何だ? 気持ちの重さなんざわからんだろう。結局のところ主観でしかない上に測れるものでもない」
「お? それはもしかして、あたしと同じくらい好きって言ってくれてる? それは嬉しいなぁ」
「…………くだらないことを言ってないで、櫻井の話を聞いてやるんじゃないのか? 自分の話をしてどうする」
相澤くんがぶっきらぼうな態度でカナさんに対してしっしと手を振る。
でもそれを見て、カナさんが物凄く嬉しそうに微笑んだ。
「うふふ、ちなみに優子ちゃん。今の優子ちゃんの言葉は本当。そして真司の言葉は照れ隠しだね」
「ふふ、今のは私にもわかりました。そしてありがとうございます…………それで、ですね、私はあるんですよね。多分これは本当にそうで」
そして、優子は自分の中の感情を掘り起こしていく。
カナさんは、本当にさっきの話がわかっていなかったのか疑問に思うほど、きちんと、簡潔に答えてくれた。
それは相談とも違う、何か別のもの。でも優子にとってだけは相談よりも余程、嬉しいもの。
いつしか、いっくんが格好良くなっていって、周りの評価がどんどん変わっていく中で、優子自身は全然変われずにいた事がしんどいと思うようになった。
――――本当。
いっくんが誰にも目もくれず、優子の事を好きで居てくれることが嬉しかったけれど、それで可能性を狭めてしまっているんじゃないかと不安になった。物凄い勢いで成長していく人がいるのに、同じ速度で歩けない自分が居て良いのかと。それが重たかった。
――――本当。
だから、もっといい人が、一緒のペースで歩いていける人がいるなら、その方が良いと思った。
――――本当だけど、少しだけ嘘。
早紀ちゃんといっくんがうまくいったら良いと思ってる。早紀ちゃんの事も応援してる。
――――半分くらいが嘘だけど、半分くらい本当。
自分の恋よりも、他人の恋を応援している方が楽。
――――少しだけ、嘘。少しだけ、本当。
幼馴染の方が、恋人だった頃よりもずっといい。気楽で、いい。
――――嘘。でも少し本当。
……今では、私はいっくんに対して、あの頃のような恋をしていない。
――――嘘。




