第1楽章 10節目
放課後、もう人もまばらになった教室に優子は居る。
早紀と玲奈はいつも通り部活にいっているのだが、ハジメくんがバイトということで千夏がフリーであり、久々にお喋りをしている間に夕暮れになってきていた。
「そろそろかもね…………あのさ、本当にゆっこは大丈夫?」
時計を見て、千夏が複雑そうな表情を載せて、優子に告げる。
それに対して笑顔を作って優子は頷いた。
「千夏ちゃん…………ありがとう。でも大丈夫…………もしかして気を遣わせるような表情してたかな?」
「ううん、そういう訳じゃなくて、ごめん、これはうちのただの邪推だったかも」
「ふふ、千夏ちゃんはやっぱり優しいよね。…………正直言うとね、わからないんだ、自分でも」
「ゆっこ……」
千夏がそう名前を呼ぶのに、優子は周りを見て、特に聞き耳を立てられるような位置に生徒が居ないことを確認する。
「昔、いっくんの事が好きだった私は本当。一番近い異性だったのもそうだし、好きと言ってくれて嬉しいのも本当。ただ、当時の私は子供で……まぁ今もだけど。彼女とか彼氏とか、そういう関係でセットで見られるのがしんどかったのも本当。そして、私は逃げるような理由で、一方的に別れを告げたの」
「……そんなにしんどかったの?」
「そだね。誰からもあの佐藤の彼女っていう目でしか見られなくなって、しんどかったかな。それ以上に、自分でいいのかって思いもあったのかも…………でも結局のところ、その全部を乗り越えられるほどの想いを抱けてなかったんじゃないかなって、今は思ってる」
「そっか……」
千夏は、それ以上は言おうとはしなかった。
「それでね、そんな思いとは別に、早紀ちゃんが良い子で応援する気持ちも嘘じゃないんだよね。だから多分、その時にならないとわからないけど、うまくいっても祝福できるんじゃないかなって思ってる。うまくいかなかった時は……逆にちょっと何も言えないかもしれない。ただ――――」
「うん、わかった」
その先の言えなかった言葉にも、千夏は頷いてくれた。
もしかしたら、もっと優子が大人になったら、こんなにぐちゃぐちゃした思いなんて抱かないのかもしれない。大事な物がもっとはっきり分かるようになるのかもしれない。
でも、まだ優子はこの感情にはっきりとした答えを見つけられないと思っていたし、一年で耐えられるようになった自信もない。そして何より、早紀もまた、大事な友人だった。
◇◆
その背中を見つけて、和樹は声をかける。
「なぁ、藤堂!」
そして、声をかけてから思った。何も考えずに走ったけれど、何を言えばいいんだっけ? と。
「…………何よ?」
そう答えて、振り向いた藤堂の瞳が少しだけ潤んでいるように見えた。心無しか、いつもの凛とした雰囲気も弱々しそうに見えて、和樹はますます何も言えなくなる。
あの時の、美しいと感じた藤堂と外見が変わったわけではないのに、何か違うと思った。
「あ…………えっと」
「走ってきてまで、一体何? あのさ…………悪いけど今余裕なくて、ただの野次馬とか興味本位なら、話しかけてこないでよ」
うまく言葉が出ない和樹に、藤堂が苛ついたような声で言う。
確かに今のままだと、何をしに来たんだってなるよな、そう自分でも思った和樹は、ひとまず言葉を絞り出した。
「……ごめん、さっきの話、聞いてたんだよな?」
「…………だから何? 別に陰口とかそういうんじゃないし、私が立ち聞きしてたほうが悪いじゃん、あんたが謝る意味なんて――――」
和樹の言葉にそこまで言って、少し言葉を詰まらせた藤堂は、やはりいつものキレが無いように見えた。
「…………」
「とりあえず、何も無いならもう行く…………女子の部活も終わったし、帰るから」
そして背中を向けて、立ち去ろうとする。その姿は寂しげだった。
興味本位と言われればその通りだ。和樹なんて友達とも言えない、ただの通りすがりに過ぎないのだから。
でも、このまま行かせては行けない気がした。
同じく他人だったあの時の藤堂が気まぐれでもかけてくれた言葉は、ただの言葉でも和樹はありがたいと思った。
だから、少しでも返したいと思うのに、何の言葉も浮かばない、何も口から出てこない。
(……何でだよ? いつもどうでもいい事とか余計なことは口にしちゃうくせに、何だってこういう時には一言も出てこないんだよ!)
和樹は自問する。
(空気の読めない俺! 今こそ出てこいよ! 少しだけでいいから、借りの言葉を返せる自分にすらなれねぇのかよ俺は!)
「っ…………藤堂!」
叫ぶようにまた、名前だけを呼んだ。
その声にビクッとなって、藤堂は振り向かずに立ち止まる。またその背中が歩き出す前に、和樹はまとまらないままに言葉を発する。
「あのさ…………俺なんかが言ったって、意味もないし何だよって思うかもしれないけど………ちゃんと、伝えたいことは伝えたほうが良いって!」
「…………」
藤堂は無言だった。でも無視して歩き出されることもなかった。それだけを頼りに続ける。
「……俺も、一人で謝らないととか、何かしないととか、ずっと考えてばっかのときは何一つできなかったけど、一言だけ謝ったら、ちゃんと言葉にしたら、少しだけ、変わったんだよ。自分が変われる気がしたんだよ。…………藤堂とかさ、イッチーとか、佐藤とか、南野とか、カッコいいと思う奴らに近づけるんじゃ無いかって」
「…………何よそれ」
藤堂が立ち止まったまま、こちらを向いた。
よくわからないことを言う和樹への怒りなのか、憤りなのか、先程よりも少し目に力がある気がした。
だから、勢いのままに和樹は言う。
「イッチーだってさ…………そりゃ色々あるんだろうと思うよ。昔の彼女が好きだって言ってたし、だからかもしれないけど、一目惚れなんてわかんないって言ってた。でもさ、それもやっぱずっとこの先もそうかなんてわかんないじゃん。少なくとも俺は、藤堂みたいな子が好きだって伝えてくれたら、イッチーだって嬉しいって思うんじゃないかって思うよ」
「……あんたに、何がわかるのよ? 事情もわからないのに勝手に期待しないでよ…………」
確かに和樹は藤堂のことなんて全然知らなかった。イッチーのことも知らない。
これまで羨むばかりで知ろうともしてこなかったのは、和樹自身がよくわかっている。
勝手に期待して何を言ってるんだと言われればその通り。間違いなく藤堂が正しい。
それでも、今和樹の目の前で、何かから目を逸らすように震えるようにしている藤堂を見ていて、和樹は何かを言いたくなったのだ。
だから――――。
「そりゃさ、わかんねーよ、俺は空気も読める方じゃ無いしさ、人の気持ちなんてわかんないことばっかだよ! だけどさ、藤堂のことは、かっこいいと思ってんだよ…………ちょっと話聞いたからって、そうやって項垂れたようにして帰ろうとすんのは似合わねーって、そう思ったんだよ! 駄目って決めつけて逃げんなよ!」
「…………っ!」
藤堂が息を呑む音が聞こえた気がした。
そして言い切ってしまってからの無言に、ひゅっと和樹の頭が冷える。
誰が言えた義理だと思った。
「ごめ――――」
冷えた頭で、自分はどの立場で何を言ったのかを考える。藤堂の顔を見れずに、頭を下げて謝ろうとした時。
「何であんたの方がそんなに必死なのよ?…………もう、わかったわよ………………」
疑問の声を上げて、少しの沈黙の後にそう呟くと、藤堂は先程とは逆方向に向かって歩きはじめた。
「……ありがと」
そして隣を通り過ぎる気配と共に、藤堂のそんな声が聞こえる。それに顔を上げて振り向いて見た姿は、先程よりも力のある足音を立てていて、何より、凛とした背中を和樹に向けていた。
先ほどまでの弱々しいオーラは消えていて、それを見て、やはりその後ろ姿は綺麗だと、和樹は思った。
そのまま、夕日が差し込んでいる廊下を真っ直ぐ歩いて、藤堂は去っていく。
「……頑張れ」
もう届くことはないだろうけれど、和樹は振り向かない背中にそう呟いた。




