第1楽章 8節目
その日は朝から学校全体の空気が浮ついていた。
和樹もその感覚を肌で感じつつも、自分にはまぁ関係ないかという思いと、もしかしたらクラス全員に配る神でもいるのではないかという淡い期待に包まれている。
勿論そんな感覚とは無縁の男子生徒もいるとは思う。だがきっと自分の方が大多数に位置するだろうと信じながら、授業と授業の休み時間で和樹は後ろを向いて、少数派であるだろう男子生徒筆頭に羨ましさを込めて言葉を発していた。
「…………こんな感覚も、きっと佐藤は無関係だよなぁ」
あれから、席が近いことからも休み時間にこうして会話をする程度にはなった。
普通に話しかけてくれれば、の言に違わず、佐藤は自然体で返してくれる。
「どうしたの急に? ってまぁ言いたいことはわかるけどさ…………」
そう言って頬をかく仕草をする佐藤は、朝も一緒に南野と仲睦まじく登校してきているのを目撃している。
朝練にも出始めたので、和樹は朝も早いのだ。
「朝一緒に来てたし、もう貰ったんだろ? 手作り?」
「…………あー、うん、そうだね。貰ったのは朝じゃないけど」
「え? だってまだ昼休みじゃないし、後授業だったろ? …………あぁもしかして、休みの昨日に会って貰ったってことか?…………そういえば佐藤って家この辺なんだよな。まさかお前ら、同じ家から来てたりしないよな? ははっ………………ぇ?」
和樹の中で、少しずつ、連想ゲームのようにまさかが続いていくが、漏れるように呟いたその言葉達を、最後の冗談含めて目の前の男は一つも否定しなかった。
「……あはは、まぁ、付き合ってるしその……ほら、ね」
柔らかく笑うその顔には少し照れが滲む。
男子高校生の照れた顔なんて誰得だよ、そう思いつつも、マジかよ、という思いで和樹は佐藤から目を離せなかった。
そりゃ、もうすぐ二年生にもなるこの時期だ、卒業してるやつなんて一定数いるだろう。和樹と同じように年齢イコール彼女いない歴の数とどちらが多いかはともかく。
ただ、である。
彼女が家に泊まる?
バレンタインデーの前日に?
仲良さげに朝から一緒に登校?
そして、その相手があの南野である。
勿論、今更この状態で南野と佐藤が似合わないなんて思うこともないし、むしろ、席が近くてその空気に直接触れている和樹は、他クラスの未だやっかんでいる奴らに比べたら圧倒的に擁護派に転身している。
過去はどうあれ、今の和樹は眼の前の佐藤のことを尊敬こそすれ、下に見ることも馬鹿にすることも決して無い。普通に見えるからこそ、その凄さもわかったし、変な嫉妬を取り払って話してみると、すごく気持ちが良いいいヤツだった。
その上で言いたい。心から。
「なぁ、佐藤…………まじで一回爆ぜてくんないかな? ちょっとリア充すぎねぇ!?」
そもそも頑張るとか努力とかそういう話ではない気がした。
この羨望なのか嫉妬なのかわからない気持ちは、きっと許されるのではないだろうか。もし許されないのであれば、その域に和樹が到達するのはまだまだ長い長い修業が必要そうである。
目の前の男を拝んだらご利益でも無いだろうか。
◇◆
昼休みになって、和樹は席を立つ。
南野のプレッシャーに気圧されるようにして、というわけではなく、普通に食堂で食べるためだけれど。父親はタクシーの運転手、母親はパートで結構忙しく、和樹は一人っ子なので弁当を作成してもそこまで経済的ではないということでお金を渡されていた。
最近は、バスケ部の友人、とまではいかないが、一緒に誘ってくれる部活仲間と昼は食べる。
連れて行ってくれたのがもう一人の佐藤こと、イッチーだったということもあり、そして、キャプテンとして人望が厚い板東先輩の後輩だったということもあり、あまり知らない仲なりに、和樹は受け入れてもらっていた。
中学で三年間やったとはいえ、高校から初めて一年間やった先輩と同じか、それ以下だったものの、久々に触るバスケのボールは思ったより手に付いてくれたし、頑張ろうと思ったときに、頑張らせてくれる環境だったのがありがたかった。
いや、ありがたいと思えるようになったと言うべきか。
正直、和樹自身の性根が何か劇的に変わったわけでもない。
高校生になって、少しばかり見かけをそれっぽくしたのも、サッカー部に入ったのも、モテたいとかそんな程度の軽い気持ちだし、今もふんわりとそんなことを考えている。
勿論、後ろの席の佐藤には嫉妬する。僻みはしないようにしたいと思う心が、変わったことか。
――――いや、ちょっと僻むかも。だって羨ましいという心が湧いてくるのは事実だ。
「よっす、席取っといたよ?」
「……サンキュ、じゃあ俺水取ってくるわ」
食堂に入ると、同じバスケ部の下山と上木が声をかけてくれる。ちょうど今来たところのようなので、和樹も人数分の水を取りに行こうかと思って、ふと疑問に思って聞いた。
「あれ? イッチーは?」
他の予定が無い限りは大体一緒に食べるのだが、今日は姿が見えないようだった。
「イッチーなら、イケメンの義務を果たしに行ったよ」
「モテる男はつらいよね、いや皮肉とかじゃなくマジで」
下山が、淡々とそう告げて、上木が肩をすくめるようにして続けた。
この二人は、イッチーと同じクラスで、そして新参の和樹とも普通に絡んでくれる貴重な二人だ。
『へぇ、あまり良い印象無かったけど、普通に真面目にやるじゃん、改めて俺、D組の上木な』
『同じく下山だ』
中学の経験者ということで、ひとまず練習に参加させてもらった時のグループが上木、下山、イッチーだったのだが、数日の練習を黙々としているうちに、そう言ってもらえたのが和樹としては嬉しかった。
板東先輩の性格的なものもあるのだろうが、比較的斜に構えたりちょっとしたふざけが多いサッカー部に比べて、バスケ部の生徒は実直な人間が多い印象だった。そのため、逆にそれまでの和樹が絡んだことがあまりなかったのもいい方向に働いたのかもしれない。
二人とも中学までは帰宅部で、バスケ経験的には高校かららしいが、どちらも結構身長も高く運動神経も悪くないため、鈍っている和樹よりも上手い。折角なら同じくらいのレベルとしてやりたいと、せめてカンを取り戻せるようにもう少し頑張ろうと思っていた。
「……あぁ、なるほど」
そんな二人の言葉に和樹は深く頷く。
世間一般的にも、今日は女の子が意中の男子に想いを告げやすい日だ。そして、学校でタイミングを見計らうのであれば、早朝か昼休みか放課後だろう。
まぁ、その日一日が続くことを考えると、放課後が多いのだろうけれど、イッチーに関しては順番待ちがあっても納得できるな、と和樹は思った。
「イッチーって、彼女作んないのかな?」
三人でご飯を食べながら、和樹は普通に疑問に思っていたことを呟いた。
先程の二人の雰囲気も、断りに行く前提のように聞こえたからだが、下山と上木は少し顔を見合わせるようにして、和樹に答える。
「まぁ、本人に聞いてもすぐ教えてくれるだろうから言うけど、普通に忘れられない好きな子がいるらしいよ、誰とは教えてくれないけど」
「……まぁ部活のときにでも聞いてみろよ、イッチー普通にその辺オープンだから、部室でも普通に聞かれたら話してるし」
「へぇ、まぁ確かに人伝で聞くのは良くなかったな、変な質問してごめん、サンキュ。後で聞いてみるわ」
二人の言葉に、和樹はああそうかと思ってそう言った。
すると、上木がニヤッと笑って、和樹の顔を見て呟く。
「何かさ、石澤ってあれだよな……何か薄っぺらいやつって感じだったけど、少し変わったのか? まぁあまり絡んだことなかったから人から聞く人の評判なんて当てにならんのかもしれないけどさ」
上木の言葉に下山も頷いている。
「いや……俺は噂通りだよ、薄っぺらいとか空気読めないとかだろ? まぁ、ちょっとそれだと格好悪いなって最近思っただけなんだけど」
「まぁ、俺は悪くはないと思うぞ……その雰囲気イケメンみたいな髪型は似合ってないけど」
またも頷く下山。
「……上げてんのか下げてんのかどっちなんだよ? はは、まぁでもありがとな…………髪型もなぁ、とりあえず俺はモテたいんだよなぁ。少しでも外見から、と思っても理想とは程遠いし、頑張るしか無いんだろうけど、どうすりゃ良いんだかなぁ」
貶されているようで嫌味じゃない二人の言葉に、和樹もまた冗談のような本音を吐き出す。
結局のところ、和樹の薄っぺらい嫉妬も羨望も、そこからの反省も情けなさも、格好良さや輝きへの憧れも、モテたいという願望から来てるのだ。こればかりはそうなのだから仕方ない。
「まぁわかる」「完全に同じだわ」
この二人は何だかんだで、もう人を貶したりすることはしないと思いつつも何をしたらいいのかわかっていない和樹と波長があった。
なので、そんな風に馬鹿話をしながら食堂で昼休みギリギリまで駄弁って過ごす。
そして結局、昼休みの間にイッチーが食堂に現れることは無かった。
昼休みでこれだと、放課後はどうなんだろうな。そんなことを思ってふと和樹は考える。
(そういや、藤堂はチョコ、イッチーに渡したのかな?)
和樹にとっては、あれだけかっこいいと思える美人でも、同じように悩んだりするんだなと、あの時意外に感じたが、今日うまく渡せているといいなと他人事ながらにそう思った。




