第1楽章 7節目
買うか、作るか、それが問題だ。
藤堂早紀は、チョコレート売り場でかれこれ30分にもなる悩みを抱えて立ちすくんでいた。
買って、さっと渡した方が良いかな。
そこまで仲良くなれてない女子からのいきなりの手作りなんて、重いどころか気持ち悪いよね。千夏とは状況も全然違うんだし。きっと買ったほうが味だって美味しい。
――――でも、何かもう少しだけ、気持ちを載せたい。
まさか、自分がこんなことになるなんて。早紀は何度目になるかもわからない問答を繰り返す。
『一目惚れでした、付き合ってください』
『……悪いけど、よく知りもしないのに付き合ってって言われても困る、ごめんね』
一目惚れなんて、ありえないと思っていた。
中学の時、そうやって言ってくる男子を断った回数は、多分両手では足りないくらい。
元々早紀は、男子という生き物がそこまで好きではなかった。
じろじろ見てきたり、かと言ってこちらが目を向けると目をそらす。
視線がバレていないとでも思っていることも、バレなければいいと思っていることも、どちらをとっても気分がいいものではなかった。
だから余計に、ただ外見だけを見て、何一つ内面のことなんて知ろうとしないで付き合ってくれと言ってくる行為自体に嫌気がさしていたとも言う。
性格的に可愛い方ではないのは自覚している。
バレンタインデーの時期には、男子の誰よりもチョコを貰う程度にはモテたが、自分から渡そうと思ったこともなければ、誰かを好きになるという感情が自分に湧くかどうかも疑問だった。
それはだから、早紀にとっての小さな世界が壊れる音だったのだろう。
(………………)
通っていた中学では何か部活に必ず入らないといけなかった。それで、身長を活かすことでバスケを選んだけれど、バレーではなくてバスケにしたのは、兄の漫画の影響に過ぎなかった。
でも、今はそれを感謝している。
あれだけ一目惚れを馬鹿にしてきた自分が、一目見た瞬間に目を離せなかった。
唐突に恋が訪れる音は、全身に響く心臓の音と共にやってくるのだ。
入学式の後の簡単な説明の後、決まっている者はもう入部できると聞いて、バスケ部に入部届を出しに行った。そこに彼がいた。
「うわー、凄い美形、モデルでもいないんじゃない? 誰?」
「いや、全然知らないけど、名前は佐藤くんらしいよ」
同様にバスケ部に入部しようとしている子がそう言っているのを聞いて、早紀は心のメモに『佐藤くん』を刻む。
そしてその後、簡単に女子バスケと男子バスケ合同でのオリエンテーション――どのように体育館を共用するかや部室や更衣室のルールなどの説明――があったのだが、殆どの女子は佐藤くんに視線が行っていただろうと思う。
「藤堂さんだっけ? めちゃくちゃ美人だね」「よかったら、同じバスケ部のよしみで連絡先でも」
その後で、名前も知らない男子が声をかけて来たりして、邪魔だと思っていたところを、雰囲気を壊さないように助けてくれたのが佐藤くんだったのも、早紀が初めて落ちかけていた恋心に止めを刺した。
「藤堂さんだっけ。ごめんね嫌な思いさせて。代わりに謝るよ、後、嫌がるのに連絡先なんて聞かせないようにするから」
「…………はい」
お礼も言えず、あなたの連絡先を教えてくださいとも言えず。小さく返事しかできなかったあの時の自分を今でも悔いている。姉御肌なんて言われてるくせに、何がか細く「はい」だ。
――――何度繰り返しても、それ以外に言える気はしないけれど。
佐藤くんは、外見だけではなく、努力家だった。
女子バスケ部は結構強いが、男子バスケ部はあまり強くないというのが先輩から聞いていたことだったけど、佐藤くんはいつも最後までガタイのいい先輩と練習していたし、体育館の掃除やちょっとした片付けも率先してやっているのをよく見かけた。
しかも、一年生最初の中間試験では学年10位の成績で張り出されていて、早紀はこんな人がこの世の中にいるのか、と思わされてばかりで、クラスの仲良くなった女の子達に呆れられるくらいに、佐藤くんに恋をしているのはどうしようもない事実だった。
恋をすると女の子は綺麗になるというけれど、そんなの、ずっと嘘だと思っていた。
何故なら、早紀は初めての恋をしてからというもの、自分の醜さに気付かされてばかりだから。
仲が良い優子が、何かを言おうとして言えないでいるであろう内容を、実は早紀は知っている。そう、知っているのだ。
だって、一番最初に仲良くなったきっかけは、知った上で情報収集のために近づいたのだから。
多分、優子はバレてないと思っているし、千夏も玲奈も知らない。
早紀が佐藤くんに一目惚れしたのは、バスケ部の女の子達にはすぐにバレた。そして言われたのだ。
確か、授業が始まって間もない頃だったから、本当に入学して二日目とか三日目だったと思う。
『……佐藤くんって中学の時彼女いたよ。別れたって聞いたけれど、確か櫻井さんだったかな? 同じ学校だったはず、可愛らしくて、スタイルもいい子』
同じクラスの櫻井さんが思い浮かんだ。
ひと目見て、あぁ、自分とは正反対の子だな、と思った。
小柄で可愛らしくて、そして胸は大きい。こういう言い方は好きなわけじゃないけれど、男子が好きそうな女の子だった。
背が高くてモデル体型といえば聞こえがいいけれど、下手な男子より全然背が高くて、胸が真っ平らな早紀とは大違いだ。
櫻井と藤堂、何の巡り合せか、最初の出席番号順の座席で、左隣の席が優子だった。
だから、何もなくてもいつかは自然と話をしていたと思うけれど、その時敢えて話しかけたのは、事前の情報があったからなのは間違いない。
『私は藤堂早紀、せっかく同じクラスになったから、よろしくね、櫻井さん』
『うん。うわぁ、物凄い好みなんですけど…………ちょっと愛でて良い?』
『え? 愛でる? ……いいけど、あなた面白いわね、櫻井さん』
『いやぁ、藤堂さんが美人すぎるのがいけないと思うんだよね……今やってるゲームに出てきてる推しに似てる、三次元なのに凄い』
そんなやり取りで話すようになって、その後、表裏がないように見えつつどこか訳ありのような千夏と、同じく千夏と座席が近くて仲が良くなっていた玲奈の二人も一緒に行動するようになるまで、そう時間はかからなかった。
優子が中学で別れたというのは本当のようで、見ていても全く佐藤くんと関わることはなかった。
そして同時に、空気が読めて、人の機微にもよく気がついて、自分が少しばかりの損をしてもさり気なくフォローする、とてもいい子であることにも気づいてしまった。
佐藤くんのことを話したのも最初は敢えてだ。
どうなのか反応を知りたかったけれど、優子は普通に応援してくれていた。元カノという情報がもしかしたら嘘なのかもしれないとも思った程だった。
――――本当は、直接色々聞きたい。でも聞けない。聞くのが怖かった。
佐藤くんが何人かに告白されて、好きな子がいるから、と断っているのを聞いた。
その相手がもしかしたら優子かもしれないと思っていたけれど、その時は確証もなかった。
尤もそのせいで、千夏の携帯でふと『佐藤一』の名前を見た時には、かなり想定外で嘘をつかれていたのかと思って、本当にひどいことを言ってしまったけれど。
謝っても謝りきれないと思ってる。
――――本当に、自分の嫌なところを思い知らされてばかり。
千夏と言えば、見ていて思い始めたことがある。
恋は女の子を綺麗にするというのは、事実だった。
早紀自身はこんなに醜くなっていく気がするのに、千夏の恋は、千夏を明らかに綺麗にしていた。
千夏と早紀は一緒にいることもあって、容姿的にも比較に上がることが多い。
勿論、世間一般的に自分の容姿が整っているのも知ってはいる。もしかすると入学時だと比較でどちらが、というのも事実だったかもしれない。
でも、今はもう明らかに千夏のほうが輝いている。
――――どうして私の初恋はこんなにも綺麗であれないのだろう。
佐藤くんの想い人を確信したのはつい最近だ。
それは、うちのクラスの佐藤と、佐藤くんが対決の前に話した時。
ずっと佐藤くんだけを見ていたからわかる。
佐藤くんは、『好きな人』の話をした時、はっきりとこちらを見ていた。
見ていた人はきっと、話題の中の千夏を見たと思っていて気にも留めていないと思うけれど、あの時、早紀と優子、そして玲奈に千夏が一緒にいた。
佐藤くんが見ていたのは、優子だ。そう直感的に感じて咄嗟に目を逸らした先に千夏がいたから、自分を見られたと思った千夏が首を振っていたけど、私の隣で優子が少しビクッとしていたのは、気づいてた。
そしてその後勝負がついて、千夏が勝った佐藤の方に駆け寄って行って。
ようやく目を向けて見た優子が、負けた佐藤くんを見ている眼差しを見て、どうしようもなく耐えられなくなってしまって外に出た。
まぁ、八つ当たりのように、石澤に感情をぶつけてしまって反省する一幕はあったけれど。
自分の中のドロドロとした感情と、そして何より、最初から負けているようなこの気持ちがあまりにもどうしようもなくて。
優子のことを知らなかった頃じゃない。
だから優子には優子の、そして佐藤くんには佐藤くんの想いも事情もあるのだと思う。
でも、じゃあこの想いが消えるのかというと、全くそんな気配はなかった。
きっと、一目惚れから始まる恋だってある。一目惚れだからこそ、この知りたいと思う心は誰よりも強い。
「よし」
何度目になるかわからない思考の果てにそう呟いて、明らかに本命とわかるような形のチョコレートを手に取る。
『まぁ、まだゲームセットじゃないからね。私はまだまだ頑張れる!』
ただの強がりでも、一度そう言ったのだから。
私は、ちゃんと綺麗になれる恋をしている。そう思えるように。




