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シロクロイロ  作者: 双葉ゆず
第三幕 鏡に映る理想郷
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彩奈の理想郷

「彩」

その声で、我に返った。


ゆっくりと瞼を開く。何十回、何百回と見た天井があった。

孤児院【白天】の二人部屋。小学校入学前から住んでいる、私の家とも言える場所。其処にある二段ベッド、その上段で間違いない。


……何故だろう。随分と長い間、眠っていたような――どちらかと言えば悪夢を見続けていたような――いま此処に居る事が、非現実的に思える。“兄さま”と過ごした、この部屋すら懐かしい。


「おはよ。目は覚めたか?」

真横から聞こえてくる心地よい声音が耳に入った。瞼を擦りながら寝返りを打つと、翡翠と琥珀のオッドアイが、眼鏡越しに此方を見詰めていた。

「ふぁ……おはよう、兄さま」


私より三つ年上の“兄さま”とは、血の繋がりも無いし、かと言って義兄とも違う関係にある。いわば私の慕う“兄のような存在”だ。

名を哀川(あいかわ)魁知(かいち)。緊急派遣白天士の一人であり、私のルームメイトである。


「あ……? ちょっ、起こしたくらいで何も泣くコトないだろ」

「別に泣いてないよ。欠伸したからじゃないのー……」


訝しげな表情の魁知に反論しつつ、自分の顔に触れる。驚いたことに、目元から頬の辺りまで湿っていた。欠伸でもこんなに涙が出る事はないだろう。無意識の内に私は泣いていたらしい。


「本当だ。なんで?」

「聞いてるのはこっちだよ」

「なんか悪夢でも見たのかな」

「魘されてはなかったと思うけど……そんなんで明日から大丈夫なのか?」

「あした?」


私が小首を傾げると、途端に溜め息を吐き出す魁知。まだ寝惚けてんのかお前は、とでも言いたげな顔をしている。朝は弱いので許してほしい。


「……だから、明日からキンハの仕事が始まるんだって」

「…………え」

思わず硬直してしまった。


『キンハ』は『緊急派遣白天士』の略称。自身の目標である称号。私はそれを手に入れ、憧れの兄さまに追いついたのだ。

信じられず、何度か頬をつねってみた。……何も起きない。

「夢じゃ、ない……」

「やっと目が覚めたか」

黙って頷く私に、魁知は手を伸ばし、優しく頭を撫でてくれた。子供っぽいけれど、こんな行為ひとつで喜んでしまう妹分なのである。


「キンハ昇格おめでとう、彩。お互い頑張ろうな」

“兄さま”から贈られた言葉は、どんなものであれ、私にとって何よりのご褒美だった。


私は本当にキンハになれたんだ。

以前の記憶は曖昧だけれど、きっとそうだと確信していた。



上半身を起こし、思いっ切り伸びをする。二段ベッドの階段を下り、クローゼットから制服と羽織を取り出した。

「彩、先に洗面所使うぞ」

「はーい」

私の返事を聞くと、魁知は洗面所に入っていった。洗面所使うのに許可は取らなくてもいいんだけどな、と思いつつ、私は着替えを始めた。


優しい性格に加え、魁知は気が利く。私が着替えようとしているのを見ると、決まって洗面所に行き、その数分後、わざわざ確認を取った上で部屋に戻る。

魁知がこんな行動を取るようになったのは、私が小学校高学年に進級した頃だったと思う。そうして欲しいと言った訳ではないのだが、魁知の配慮には感謝である。



着替えを終えると同時に、「そっち戻っていいかー?」という声が聞こえてきた。

実は着替えの様子を見ているのでは。……いや、兄さまに限ってそれは無いか。

早々に疑いを晴らし、私は「いいよ」と魁知の耳に届く声で答えた。


戻って来た魁知は、洗面所を指差して言った。

「早く顔洗ってこい。今ならお湯が出る」

「やった。いってきます」

「ん。ちゃんと温度調節しろよ」

「分かった」

最初からお湯で洗顔できるのは嬉しい。私は小走りで洗面所に向かった。


ついでに歯磨きも済ませて部屋に戻ると、すかさず魁知が「おかえり」と微笑んだ。私も「ただいま」と返す。この何気ないやり取りも幸せだったりする。

些細な幸福を噛み締めながら、私は魁知を足から頭まで見た。勉強机の椅子に腰掛け、片手で新聞を持ち、もう片方の手でマグカップに淹れた飲み物を啜っている。典型的な大人の絵面なのに、不思議とかっこよく感じる。


「……何だよ、こっち見て」

「兄さまって学生だったっけ」

「そうだけど。どうした、唐突に事実確認し始めて」

魁知は顔には出さないが、突然の疑問に驚いている様子。率直に大人みたいでかっこよかった、と伝えるのは恥ずかしいので、遠回しにこう言った。


「ワインとかシャンパンとか、かっこいいお酒が似合いそうだなって」

「シャンパンもワインの一種だぞ」

予想外の返しに、私は目を丸くした。それは初耳である。

「そうなの?」

「ああ。仔細を知りたいなら自分で調べろ。……それより彩、ここ座って」


立ち上がった魁知が、つい先程まで腰掛けていた椅子の低い背もたれを軽く叩く。私も勉強机と椅子を持っている(というか魁知の物の横に置いてある)のだが、お言葉に甘えて座らせてもらった。

椅子のクッションが生暖かい。魁知の温度が残っているのだろう。


……それにしても、なんで私を椅子に座らせたのか。

今更ながら疑問に思っていると、目の前に二つの髪飾りが差し出された。タンポポのような黄色い花の装飾が施されている。私のものではない、初見だった。

「結ってやるよ。これでいいか?」

「ほぁ……?!」

変な声が出た。髪を結んでもらうなんて何年ぶりだろう。動揺を隠せぬまま、私は何とか「もちろん」と了承した。


「了解。髪型はどうする?」

「お、お任せします」

髪結いだけでも充分嬉しいので、とは流石に言えなかった。



慣れた手つきで髪を梳いて、緩めに編んでいく。仕上げに髪飾りで括る。その様子は見なくとも感覚で伝わってきた。

「……よし。上手くできたと思うんだが」

どうかな、と訊きながら、魁知は手鏡を渡してくれる。丁寧に編まれた髪を持ち上げて鏡に映せば、彼の腕の良さが理解できた。煎茶色の髪に、タンポポの花が映えている。


「うん、すごく上手」

「じゃあ点数は?」

「控えめに言って200点。星の数で表すなら星5つプラス10かな」

点数はいたって真面目に、星の数は何となく考えて言ってみた。すると魁知に「そこはプラス5じゃないのか?」と言い返された。確かに星5つが100点とすれば、その通りである。


「自分が訊いておいてなんだけど、採点甘すぎだろ」

「超辛口だよ」

「嘘つけ」

冗談交じりの会話に、二人して笑いが零れた。



この生活がずっと続けばいいのに。

そんな願いを胸の奥で発した、その瞬間。

『違う』

何処からか聞こえる、何かを否定する声。音源を探す前に、再度聞こえてきた。

『もう終わったんだよ』


――何が?


そう問うまでもなく、声は響いた。

『思い出して、彩奈。“兄さまは消えた”んだから、あなた(わたし)の見ている景色は存在しない。ただの紛いものに過ぎない』

言葉に一切の容赦がなかった。その一言は何の躊躇いもなく、深い傷を抉ってくる。


「それこそ、嘘でしょ……?」

思うように回らない唇を懸命に動かす。

“兄さまは消えた”なんて酷い嘘だ。

信じない、信じられない、信じたくない。


「彩?」

私の横で異変を察した魁知が名前を呼んでいる。優しさに溢れた彼の声に、何度救われたか分からない。それなのに、今は応えてはいけない気がした。

『彩奈。鏡を見て、彩奈』

魁知ではなく、自分の声に耳を傾ける。震える手で鏡を覗き込んだ。


中学校の制服の上に、白い羽織を纏う少女。たった一人で兄を捜している、“今”の私だ。

緩い三つ編みを束ねているのは、飾りっけのない質素なゴム。それこそが、私の見ている景色が偽物だと証明していた。


『気付いた? あなた(わたし)の居場所は、幻の中じゃない。早く帰るよ』

鏡の中の私が背を向けて歩き始める。追わなければ此処から出られなくなる。私の背中が、そう物語っていた。


……帰ろう。兄さまを捜そう。いつか憧れのキンハに昇格して、兄さまと肩を並べて戦おう。


鏡の奥に向けて右手を伸ばす。しかし惜しくも鏡面に届かず、私は何者かに肩を掴まれた。何者とは誰か。言うまでもない。

「何処へ行く気だ、彩」

振り向いた途端に見た、いつになく真剣な表情の魁知。翡翠と琥珀の眼光は、私を引き止めるに足る鋭さだ。

――ただし、それは。


「やめろ。これ以上、妹を危険な目に遭わせたくない」

目の前にいるのが本物の哀川魁知でなければ、一つも足りやしない。

「ごめんなさい」

私は肩に添えられた手を払う。

「ニセモノの兄さまの傍にはいられないよ。あなたが兄さまなら、私を妹とは言わない筈だから。呼んで欲しいと思った事はあったけどね」

一瞬、唖然とした魁知を見届けて、私は鏡に向き直った。


「待て……行くな、彩!」

必死に呼び止める声がする。でも、もう振り向かない。

背後にいる魁知が本物そっくりな別物である事は、嫌でも分かっている。けれど、名残惜しいのだ。久々に魁知と過ごした朝は懐かしかった。短い時間ではあったけど、本当に楽しかった。


鏡面に触れる。手がゆっくりと鏡に沈んだ。

「またね、兄さま。いつか必ず、本物のあなたを迎えに行くから」

返事は無かった。でも、それで良かったと思う。待っているよ、なんて言われたら、振り返って戻っていたかもしれないから。

やがて鏡に全身が沈む。


眩い光に包まれて、私はこの白い空間に辿り着いた。




私は静水彩奈。現在、一般白天士。


昨年の入団式前日に消息を絶った、哀川魁知の捜索――そして、緊急派遣白天士になる為に戦っている。

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