彩奈の理想郷
「彩」
その声で、我に返った。
ゆっくりと瞼を開く。何十回、何百回と見た天井があった。
孤児院【白天】の二人部屋。小学校入学前から住んでいる、私の家とも言える場所。其処にある二段ベッド、その上段で間違いない。
……何故だろう。随分と長い間、眠っていたような――どちらかと言えば悪夢を見続けていたような――いま此処に居る事が、非現実的に思える。“兄さま”と過ごした、この部屋すら懐かしい。
「おはよ。目は覚めたか?」
真横から聞こえてくる心地よい声音が耳に入った。瞼を擦りながら寝返りを打つと、翡翠と琥珀のオッドアイが、眼鏡越しに此方を見詰めていた。
「ふぁ……おはよう、兄さま」
私より三つ年上の“兄さま”とは、血の繋がりも無いし、かと言って義兄とも違う関係にある。いわば私の慕う“兄のような存在”だ。
名を哀川魁知。緊急派遣白天士の一人であり、私のルームメイトである。
「あ……? ちょっ、起こしたくらいで何も泣くコトないだろ」
「別に泣いてないよ。欠伸したからじゃないのー……」
訝しげな表情の魁知に反論しつつ、自分の顔に触れる。驚いたことに、目元から頬の辺りまで湿っていた。欠伸でもこんなに涙が出る事はないだろう。無意識の内に私は泣いていたらしい。
「本当だ。なんで?」
「聞いてるのはこっちだよ」
「なんか悪夢でも見たのかな」
「魘されてはなかったと思うけど……そんなんで明日から大丈夫なのか?」
「あした?」
私が小首を傾げると、途端に溜め息を吐き出す魁知。まだ寝惚けてんのかお前は、とでも言いたげな顔をしている。朝は弱いので許してほしい。
「……だから、明日からキンハの仕事が始まるんだって」
「…………え」
思わず硬直してしまった。
『キンハ』は『緊急派遣白天士』の略称。自身の目標である称号。私はそれを手に入れ、憧れの兄さまに追いついたのだ。
信じられず、何度か頬をつねってみた。……何も起きない。
「夢じゃ、ない……」
「やっと目が覚めたか」
黙って頷く私に、魁知は手を伸ばし、優しく頭を撫でてくれた。子供っぽいけれど、こんな行為ひとつで喜んでしまう妹分なのである。
「キンハ昇格おめでとう、彩。お互い頑張ろうな」
“兄さま”から贈られた言葉は、どんなものであれ、私にとって何よりのご褒美だった。
私は本当にキンハになれたんだ。
以前の記憶は曖昧だけれど、きっとそうだと確信していた。
上半身を起こし、思いっ切り伸びをする。二段ベッドの階段を下り、クローゼットから制服と羽織を取り出した。
「彩、先に洗面所使うぞ」
「はーい」
私の返事を聞くと、魁知は洗面所に入っていった。洗面所使うのに許可は取らなくてもいいんだけどな、と思いつつ、私は着替えを始めた。
優しい性格に加え、魁知は気が利く。私が着替えようとしているのを見ると、決まって洗面所に行き、その数分後、わざわざ確認を取った上で部屋に戻る。
魁知がこんな行動を取るようになったのは、私が小学校高学年に進級した頃だったと思う。そうして欲しいと言った訳ではないのだが、魁知の配慮には感謝である。
着替えを終えると同時に、「そっち戻っていいかー?」という声が聞こえてきた。
実は着替えの様子を見ているのでは。……いや、兄さまに限ってそれは無いか。
早々に疑いを晴らし、私は「いいよ」と魁知の耳に届く声で答えた。
戻って来た魁知は、洗面所を指差して言った。
「早く顔洗ってこい。今ならお湯が出る」
「やった。いってきます」
「ん。ちゃんと温度調節しろよ」
「分かった」
最初からお湯で洗顔できるのは嬉しい。私は小走りで洗面所に向かった。
ついでに歯磨きも済ませて部屋に戻ると、すかさず魁知が「おかえり」と微笑んだ。私も「ただいま」と返す。この何気ないやり取りも幸せだったりする。
些細な幸福を噛み締めながら、私は魁知を足から頭まで見た。勉強机の椅子に腰掛け、片手で新聞を持ち、もう片方の手でマグカップに淹れた飲み物を啜っている。典型的な大人の絵面なのに、不思議とかっこよく感じる。
「……何だよ、こっち見て」
「兄さまって学生だったっけ」
「そうだけど。どうした、唐突に事実確認し始めて」
魁知は顔には出さないが、突然の疑問に驚いている様子。率直に大人みたいでかっこよかった、と伝えるのは恥ずかしいので、遠回しにこう言った。
「ワインとかシャンパンとか、かっこいいお酒が似合いそうだなって」
「シャンパンもワインの一種だぞ」
予想外の返しに、私は目を丸くした。それは初耳である。
「そうなの?」
「ああ。仔細を知りたいなら自分で調べろ。……それより彩、ここ座って」
立ち上がった魁知が、つい先程まで腰掛けていた椅子の低い背もたれを軽く叩く。私も勉強机と椅子を持っている(というか魁知の物の横に置いてある)のだが、お言葉に甘えて座らせてもらった。
椅子のクッションが生暖かい。魁知の温度が残っているのだろう。
……それにしても、なんで私を椅子に座らせたのか。
今更ながら疑問に思っていると、目の前に二つの髪飾りが差し出された。タンポポのような黄色い花の装飾が施されている。私のものではない、初見だった。
「結ってやるよ。これでいいか?」
「ほぁ……?!」
変な声が出た。髪を結んでもらうなんて何年ぶりだろう。動揺を隠せぬまま、私は何とか「もちろん」と了承した。
「了解。髪型はどうする?」
「お、お任せします」
髪結いだけでも充分嬉しいので、とは流石に言えなかった。
慣れた手つきで髪を梳いて、緩めに編んでいく。仕上げに髪飾りで括る。その様子は見なくとも感覚で伝わってきた。
「……よし。上手くできたと思うんだが」
どうかな、と訊きながら、魁知は手鏡を渡してくれる。丁寧に編まれた髪を持ち上げて鏡に映せば、彼の腕の良さが理解できた。煎茶色の髪に、タンポポの花が映えている。
「うん、すごく上手」
「じゃあ点数は?」
「控えめに言って200点。星の数で表すなら星5つプラス10かな」
点数はいたって真面目に、星の数は何となく考えて言ってみた。すると魁知に「そこはプラス5じゃないのか?」と言い返された。確かに星5つが100点とすれば、その通りである。
「自分が訊いておいてなんだけど、採点甘すぎだろ」
「超辛口だよ」
「嘘つけ」
冗談交じりの会話に、二人して笑いが零れた。
この生活がずっと続けばいいのに。
そんな願いを胸の奥で発した、その瞬間。
『違う』
何処からか聞こえる、何かを否定する声。音源を探す前に、再度聞こえてきた。
『もう終わったんだよ』
――何が?
そう問うまでもなく、声は響いた。
『思い出して、彩奈。“兄さまは消えた”んだから、あなたの見ている景色は存在しない。ただの紛いものに過ぎない』
言葉に一切の容赦がなかった。その一言は何の躊躇いもなく、深い傷を抉ってくる。
「それこそ、嘘でしょ……?」
思うように回らない唇を懸命に動かす。
“兄さまは消えた”なんて酷い嘘だ。
信じない、信じられない、信じたくない。
「彩?」
私の横で異変を察した魁知が名前を呼んでいる。優しさに溢れた彼の声に、何度救われたか分からない。それなのに、今は応えてはいけない気がした。
『彩奈。鏡を見て、彩奈』
魁知ではなく、自分の声に耳を傾ける。震える手で鏡を覗き込んだ。
中学校の制服の上に、白い羽織を纏う少女。たった一人で兄を捜している、“今”の私だ。
緩い三つ編みを束ねているのは、飾りっけのない質素なゴム。それこそが、私の見ている景色が偽物だと証明していた。
『気付いた? あなたの居場所は、幻の中じゃない。早く帰るよ』
鏡の中の私が背を向けて歩き始める。追わなければ此処から出られなくなる。私の背中が、そう物語っていた。
……帰ろう。兄さまを捜そう。いつか憧れのキンハに昇格して、兄さまと肩を並べて戦おう。
鏡の奥に向けて右手を伸ばす。しかし惜しくも鏡面に届かず、私は何者かに肩を掴まれた。何者とは誰か。言うまでもない。
「何処へ行く気だ、彩」
振り向いた途端に見た、いつになく真剣な表情の魁知。翡翠と琥珀の眼光は、私を引き止めるに足る鋭さだ。
――ただし、それは。
「やめろ。これ以上、妹を危険な目に遭わせたくない」
目の前にいるのが本物の哀川魁知でなければ、一つも足りやしない。
「ごめんなさい」
私は肩に添えられた手を払う。
「ニセモノの兄さまの傍にはいられないよ。あなたが兄さまなら、私を妹とは言わない筈だから。呼んで欲しいと思った事はあったけどね」
一瞬、唖然とした魁知を見届けて、私は鏡に向き直った。
「待て……行くな、彩!」
必死に呼び止める声がする。でも、もう振り向かない。
背後にいる魁知が本物そっくりな別物である事は、嫌でも分かっている。けれど、名残惜しいのだ。久々に魁知と過ごした朝は懐かしかった。短い時間ではあったけど、本当に楽しかった。
鏡面に触れる。手がゆっくりと鏡に沈んだ。
「またね、兄さま。いつか必ず、本物のあなたを迎えに行くから」
返事は無かった。でも、それで良かったと思う。待っているよ、なんて言われたら、振り返って戻っていたかもしれないから。
やがて鏡に全身が沈む。
眩い光に包まれて、私はこの白い空間に辿り着いた。
私は静水彩奈。現在、一般白天士。
昨年の入団式前日に消息を絶った、哀川魁知の捜索――そして、緊急派遣白天士になる為に戦っている。




