悪夢のはじまり
時は2XXX年。初夏の日本。
私はいつも通り、平穏な日々を過ごしていた。
「いってきまーす」
私が声をかけると、母が急いで玄関まで来てくれる。
「水音、花彩、気をつけてね」
「はあい」
晴れた日の朝。母に手を振り、道路に出る。まだ午前中なのに蒸し暑い。こうなると午後は暑さ倍増。なんだか憂鬱になってくる。
私たちの行き先は地元の中学校だ。受験はせず、姉の花彩と同じ所に通っている。徒歩で行ける距離だから有難い。
通学路の途中、後ろから足音が近づいて来た。振り返ると、まだ小学生の弟がいた。
「姉ちゃん、お弁当」
そう言って風呂敷に包まれた弁当箱を渡してくれる。額には汗が滴っている。わざわざ追いかけて来てくれたらしい。
「ごめん、忘れてた……。ありがとう利晴」
弁当箱を有難く受け取り、鞄に仕舞う。
「今日は授業参観の振替休日で暇だからさ、その……二人とも早く帰って来てよ」
照れた顔を隠しながら訊く利晴は相変わらず可愛い。
「私は今日は遅くなるかも。お姉ちゃんは?」
「分からないけど、出来るだけ早く帰るわ」
「待ってる。いってらっしゃい」
利晴が家の方向へ走っていく姿を最後まで見守り、私たちも歩き出した。
辛いことは多々あるけれど、今の暮らしに文句はない。なんだかんだ幸せだ。
そんな普通の幸福は、永くは続かない。予期せぬ時に崩れて無くなってしまう。その事実を私はまだ知らない。
――放課後。委員会の仕事が入ったので、花彩には先に帰るよう伝えた。
利晴が暇を持て余し待っている。急ごう。
結局、花彩より三十分遅れて学校を出た。思ったより書類まとめに時間がかかってしまった。夏とはいえ、空がもう橙色に変わっている。早く帰らなければ、日が暮れてしまう。
そう考えると、自然と足取りも速くなった。
見慣れた住宅街に入った所で、違和感を感じた。思わず周囲を見回す。人の気配が全くない。そして空気が妙に重いというか……嫌な感じだ。気味が悪いなと思いつつ、家へ走って帰る。歩いていると落ち着かなかったし、とにかく怖かったからだ。
我が家が見えてきた。玄関のドアが開きっぱなしだ。さらに近づくと、私はある事に気付いた。
鼻をつくような匂い。家族の誰かに何かあったのか。私はまた走る。家の中へ入ると、靴を脱ぐのも忘れてリビングに飛び込んだ。
中にいたのは、血を流して壁にもたれる父。そして、角や尻尾のある黒い着ぐるみを着た見知らぬ男が一人だった。空気が外より何倍も重たく、恐怖が波の如く押し寄せて来る。上がっていた息が止まらない。
逃げたかった。でも動かない。動けない。
父に一言ぐらい声をかけたかった。でも口すら開かない。開けない。男の視線が私をその場に締め付けている。
「まだいたのか」
男が私に近づき、ぼやく。背筋が凍った気分だ。
「……水音、逃げろ」
父の力を振り絞るような声が聞こえた。まずい。このままだと二人して死ぬ。
でも私は男に抗えない。なぜなら今現在、私は武器も何もなしの完全無防備状態。対して男の方は鋭利な爪を持っている。刃向かえば即死だろうから、絶対勝てない。
「素質の無い人間は、排除するのみ」
その一言と同時に、先の尖った爪が私に向かって伸びてくる。
死ぬのかな。
そういえば、弟と母は何処に行ったんだろう。
姉は帰れなかったのか。
どうせなら家族全員に看取られて死にたかったなあ。
突如として視界がぐわんと揺れ、横向きになる。目の前で炎が燃え上がっていた。なんとなく綺麗だなと思った瞬間、意識がプツリと途切れた。
――暖かい。私はふわふわとした物の上に仰向けで眠っているようだ。どうしたものか、目を開けられない。これが死んだ時の感覚なのか。心地がいいから、天国にでもいるのかもしれない。
「大丈夫か」
私を心配する声が聞こえる。思わず飛び起きた。辺りを見回す。勉強机や本棚などの家具、壁のポスター。見慣れた物ばかりだ。どうやら自室の中らしい。
私はベッドの上にいた。だからふわふわした感覚があったのか、と納得する。
「元気そうで何よりだ」
声を聞き、話しかけられていたのを思い出した。
声の主は初見の女の子だった。見た目は高校生あたり。焦茶色の髪は腰まで伸びていて、綺麗な赤い目がかっこいい。羽織っている丈の長いコートの中は制服だろうか。スカートのベルトに日本刀や四角いミニ鞄など色々ついているのが気になるが、今は口出ししない。
「えっと、どちら様ですか」
「私は織火。悪魔の討伐をしている者だ。この辺りで悪魔の出没情報が入ってな。この一軒家に辿り着いた訳だ」
彼女の無垢な瞳から、嘘はついていないと分かる。
悪魔。初めて聞いた言葉に疑問を抱きつつ、あることを思い出した。
「父は生きてますか⁉︎ 怖い男の人は⁉︎」
私が大声で言うと、織火は顔を伏せた。
「怖い男ーー悪魔は倒した。父親は救急車で運んだが、亡くなったよ」
瞼の下が熱くなる。体の力が抜けていく。
「それから、母親と弟は彼奴等に連れ去られた。行方が分からない以上、後は追えないが」
父は亡くなり、母と弟は誘拐された。こんなにも唐突に家族がいなくなっては、平常心を保てない。織火の話も黙って聞くしかなかった。
でも、最後の希望がある。
彼女はまだ姉のことを言っていない。
「姉は……無事ですか」
「ああ、姉は「織火、日が暮れたから帰ろう」
彼女の声を誰かが遮った。今度は男の子だ。
彼はスタスタと私の部屋に入って来た。目が合う。
「はじめまして、木織です。僕は織火の双子の弟で、二人で悪魔討伐をやってるよ」
彼が満面の笑みを見せる。その顔が弟の笑顔と重なり、家族を失った現実味が一気に増してくる。必死に我慢していた涙が溢れた。
「うわあ!ごめん、何か悪いことした⁉︎」
私は首を横に振る。声は出ない。今は喋る気力もないのたま。
織火がさりげなくハンカチを渡してくれた。彼女の気遣いに心が温まる。そっと涙を拭き取って、丁寧に畳み直して返す。
次の瞬間、彼女は彼をギロリと睨んだ。
「女の子を傷つけるなんて最低だな」
「僕、何かしました⁉︎」
「木織の仕業でなかったとしても、この子が泣いているのは確かだろう。謝れ」
彼女がまた睨む。目が、目が怖い。すごい圧だ。
「ごめんね」
圧に押されて、木織は私に向かって謝った。
「いえ」
少しは落ち着いたらしく、やっと発声できた。涙も止まっている。二人のおかげで場が和んだからかもしれない。ほっと息を吐く。
「此処はもう安全ではない。出る準備をしてくれ。家族が戻って来るまでは私が匿う」
そう指示を受けて、最初は戸惑った。いくら同じ学生(仮)とはいえ、相手は赤の他人である。気軽について行っていいんだろうか。
「信用できないか?」
「まあ確かに、初対面だしなあ」
「……行きます」
そう決意した。この人たちは信用できると思うから。
さっきも思ったけれど、二人の瞳には一切曇りが無い。
元々、此処にいても何にもならないのは分かりきったことだった。ずっと絶望していても始まらない。踏み出さなければいけない。前へ。
荷物の整理中、織火が教えてくれた。今後のこと、そして悪魔のこと。
悪魔。
数年前、外国から日本に拠点を移した魔物。人に黒い絵の具を塗ることで仲間を増やし、繁殖してきた。時には人間を無差別に殺す、人類の天敵である。
悪魔は基本的に夕方に出没する。理由は二つ。一つ、この時間帯は人が多いこと。二つ、他の時間帯は出てこれないこと。夜は地球の何処かに存在する悪魔国で集会があり、朝と昼は苦手な太陽光があるためらしい。早朝に出てきて、建造物などに身を潜めている場合もあるとかないとか。
「それを討伐するのが私たち“白天士”だ。普段は【白天】という悪魔討伐団の拠点で訓練をしながら暮らしている」
「私もなれますか!」
突然身を乗り出した私に驚いたのか、彼女の眉が微かに動く。
「私も白天士になれますか」
彼女は一度考え込むように黙り、また話した。
「悪魔を討つということは、人を守る為に命をかけることと同じだ。それでもやると言うのならば、尊重しよう」
初めて悪魔を見た時。恐怖で体がすくんで動けなかった自分がいたことが悔しかった。強ければ父を助けられたんじゃないかと思った。
白天士なら、強くなれる。悪魔を討伐できる。他の人の命を救える。たとえそれが私の望んでいた道ではなくても、進むしかないんだ。今を生きるために。
「やります。やらせてください!」
という私の決意の一言から、全ては始まった。