完結.月が綺麗ですね
言葉が一つの宇宙であるならば、
それに拮抗できるのはやはり一人の人間という、
もう一つの宇宙でしかない。(抄出)
才介はぬるくなった缶コーヒーを傾けてのどの奥に流し込む。
金色をした微糖のスチール缶からは吐き気がするほど甘ったるい液体が流れ込んできて、音を鳴らして勢いよく飲み込むと、「ごくり」と大きく頭の中で反響した。それは遠くで雷鳴が轟いているような静かな衝撃だった。
こんなささいな日常が、どこか懐かしい。
やはりあれは夢だったのかと思う。
月の化身は最初から存在していなかったのではないだろうか。
寝ても覚めても、気が付けば四六時中に渡って彼女に想いを馳せている。今日のスーパームーンだって、本当は彼女が見せている幻なんじゃないか、とか、天体望遠鏡をのぞいたら彼女は月面にいるんじゃないかなんて、支離滅裂で脈絡のない空想ばかりが、月とともに夜空に浮かんでは消えていく。
「今夜は月が綺麗ですね」
吉川愛は目を輝かせて上空を見つめている。
黄金色をした円盤状の衛星は、広大な宇宙のキャンバスにその身体を鎮座させていた。それは人工的な明暗と混じることで、どこか神秘的で、かつ、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
今朝の情報番組ではスーパームーンが大きく取り沙汰されていたが、才介には普段見ている月となんら変わりなかった。
ブルーライトで照らされた公園の街灯の下には、才介と吉川愛の足跡しかなかった。薄く積もった白い雪が二人の行方を記録しているようで、この先に抗しがたい運命があることを暗に示唆しているようだった。
才介はひんやりとした空気を肺の中にゆっくり取り入れる。そっと吐き出すとそれは白くにごって、生物が呼吸をしているのだという現実を、改めて視覚的に思い知った。
「才介さん、もうすこし近寄ってください」
彼女はそう言いつつも自分から尻の位置を半分ずらして、才介の膝頭が当たるところまで来た。ベージュ色のチノパンツと紺色のフルレングスパンツの繊維がこすれて小さな静電気の火花が散った。
「一緒にマフラーを巻きましょう」
冷たい風が髪の毛を揺らした。
冬の外気温は足元から侵食する。
才介はされるがままになって吉川愛にチェック柄のマフラーを巻いてもらった。二人で共有することで身体よりも心があったかくなるはずだった。
だが、才介の瞳に吉川愛は映っていない。
ブラウン色の虹彩は何者をも捉えていないのだ。
それはもうこの世に存在していない女の子の影をいつまでも追っていて、空虚でどこまでも茫洋として、遠くを見つめているにすぎなかった。
「先輩」吉川愛はそんな抜け殻の才介を抱き寄せる。彼は反射的に頭を反らそうとしたが、首巻きがそれを許さない。「先輩。私を、見てください」
両頬を手の平で挟まれた。彼女の顔が大きくなる。
才介は鼻から大きく冷たい空気を吸った。そして水中にもぐる前みたいに息を止める。
目をつむった。覚悟を決める。
もう月の化身はいないのだ。
彼女とは決別しなければならない。
唇と唇が触れ合う。ミントの味がした。
その瞬間、才介の両腕は勝手に動いていた。
コーデュロイジャケットの背中を必死でまさぐり、自分から抱きしめに行ったのだ。男って単純だ。
もう一度と顔を近付けると、吉川愛の被るファーのベレー帽が額のあたりで擦れた。くすぐったくて動きを止めると、彼女の息が鼻にかかった。甘くて柔らかな吐息に才介の鼓動は速くなる。
唇をちょっと尖らせて、今度は目を見開いたまま口を近付ける。彼女は目を閉じた。下半身が硬くなってズボンが窮屈に感じる。それを無視するように互いの体温を確かめ合うと、冷めた真っ白な世界に、一筋の淡い光がともった。
「今日って先輩の出す新人賞の締め切り日でしたよね」お互いの首元を一本のマフラーで温め合いながら、吉川愛は笑みを浮かべた。「やっぱり頑張ってる先輩は素敵です。公募に間に合って本当によかったです」
「そうだな」
才介は力なく肩をすくめて見せた。
ライバルは星の数ほどいるのだ。だから自信と不安が常にせめぎ合っている。
「俺さ。ようやく自分が小説を書く理由を見付けられた気がするよ」
煌々と照る巨大な明月が、二人を見守るように悠然とたたずんでいる。
それを頭上に感じながら、才介は言った。
「これまで俺はさ、みんなから勇気をもらっていたんだ。元気をもらったり、励ましてもらったり……。本当に、周囲に支えてもらって今の自分があるんだと思う。だからさ、これからはすこしでも恩返しがしていきたいんだ。みんなから勇気をもらった、だからそれをみんなに返したい。元気をもらったり、励ましてもらった。これからはその恩を、日本だけじゃなくて、世界に還元していきたいんだ。みんなを、世界中の人を笑顔にしたい。それが俺の――」
才介の口元に、ふっと笑みがこぼれた。
吉川愛が彼の手を力強く握っていたのだ。
その表情は、信じているよと無言で語りかけていた。
「小説を書く理由であり、目標だ」
「才介さんなら、きっと出来ますよ。だって」
二人は同時に天を仰いだ。
「今夜はスーパームーン。奇跡の日ですから」
「ああ、そうだな」
「才介さん。今夜も綺麗な月ですね」
才介ははまだまだ欠けたところの多い半月だ。
だからこそ月の化身と出会い、吉川愛と出会ったのだ。
二人でひとつの満月を形作るために。
「月が綺麗ですね」
これで完結しました!!!!
この作品は綺麗事ではなく、本当にみんなに支えられて書き上げた小説です。途中で何度も筆を折りながら、幾度となく挫折を繰り返しながら、それでもなんとかたどり着いた先に、完結という名の光明がともっていました。
改めて、小説はひとりで書くだけの孤独な作業ではないと知ることができたし、だからこそ読者のみなさんを楽しませ続けられる存在でありたいと強く願っています。
最後までお付き合いくださり本当にありがとうございました!!!!




