86.それぞれの旅立ち
「卒業生のみなさんにつきましては、本校所定の課程をすべて修了し、本日をもってご卒業されることになりました。心から御礼を申し上げます」
才介は何回か欠席を挟みながらも登校し、卒業式の日を迎えていた。
伊藤汐文学賞に出す原稿は上がっていて、すでに郵便ポストに投函していた。
だから現在行われている学校長の式辞は真面目に聞くべきなのだろうが、連続で徹夜をして、執筆と編集作業にいそしんでいたために才介は眠気を催していた。隣で寝息を立てている才介を見て、鈴木は二カッと歯ぐきをむき出して「うはは。お疲れさん」と小さな声でねぎらった。
「続きまして、在校生代表による送辞が行われます。ありがとうございました。続いて卒業生代表による答辞が……」
司会進行役のアナウンスを子守歌に、鈴木も浅い眠りに落ちていった。
才介はモッズコートを脱いでハンガーに掛けた。
視界の端では鈴木がデンモクを操作していて、渡辺真理子は弁当箱の風呂敷き包みを解いており、松岡千歳はマイクの音源確認やミュージックのつまみをひねったりしていた。
カラオケルームの暖房はねっとり身体にまとわりつくような熱気と、防音壁に染みついている汗臭いにおいが波状攻撃を仕掛けていて不快感を演出していた。
制服のブレザーを脱いでハンガーに吊るすと、もうこの衣類に袖を通すことは二度となくなるのかと、ひどく落ち着いた気持ちでそれを受け入れることが出来た。
これが大人への第一歩なのか、それともただの通過儀礼なのかは知らないが、幼虫がサナギになり、やがてはその鎧を脱ぎ捨てて成虫になるように、学生も時の経過とともに制服を脱ぎ捨てて成人になっていくようだ。
それは自然の摂理だし、頭では理解しているが、制服を脱いだ瞬間に才介は学生ではなくなり、所属する企業や団体、組織等がなければ、何者にもなれないことになる。
学生という肩書きは、守ってくれた。
才介が何者であるかを証明してくれたのだ。
だけどここから先は、何も守ってくれるものがない。
就業者もしくは大学生にならなければ、何者にもなれず、存在意義を奪われてしまう社会だ。
「私たちも、もうこれでお別れだね」
籐かごの横にマイクを置きながら、松岡は切なそうな声を出した。
彼女はマグカップにティーパックを入れて、音を立てて、ずずっと飲み込んだ。
デンモクの調整が終わった鈴木や見栄えのするように手料理を皿に並べていた渡辺も集まってくる。
「うん、そうだねー。でもきっとまた会えるよー」
いつものようにのんびりとした口調で渡辺は言った。
米寿の経営は勢いを取り戻しつつある。
そこに行けばいつもと変わらない彼女に会えると才介は確信していた。
今回の手料理は3種のサンドイッチだ。
フィリングはツナと卵とポテトサラダに分かれている。どれもおいしそうだ。
「寂しいけど、松岡のメジャーデビューが決まって、俺は嬉しいよ」
才介はそうツナサンドをかじる。
きゅうりの歯ざわりが良く、マヨネーズの風味が口いっぱいに広がった。
やっぱりプロを目指しているだけのことはあって、毎回毎回その腕を確実に上げてきている。
「ううん。今回のメジャーデビューは私だけの力じゃなくって、本当にみんなのおかげだと思ってる。いつも夢に向かってひたむきに努力をしてる鈴木くんがいたからこそ、私もきついときにはそれを見習って踏ん張ることが出来たし、真理子ちゃんだって、家計がどんなに苦しくても弱音をひとつも吐かずに頑張っていてすごいなと思ったし励まされた。それに才介には、オーディション会場までついてきてもらって、それがどれだけ勇気になっていたかわからないよ。そして、いつも聞いてくれる視聴者のみんなや刹那さん、レコーディング会社の人たち、みんなに支えられて達成できたことだから、私の中にはいつでもみんながいるよ」
松岡は目を赤くしながら洟をすすった。
渡辺も同じように目元をうるませている。
空調がごうんごうんと唸って、むわっとする空気を吐き出した。
「絶対に地元でのライブをたくさんやるから、そのときは見に来てくれると嬉しいな」
「ああ、約束するよ」
「うんー、そうするー」
「うはは、応援してるぜ」
才介はツナサンドを飲み込んでから、卵サンドに手を伸ばした。
「鈴木くんもプロになるんだよねー?」
「うはは、その資格を得たってだけだ」
鈴木翔太は全国オール学生将棋選手権戦での活躍が注目されて、伊藤四段からの推薦を見事に勝ち取っていた。
毎年8月に行われる奨励会の入会試験を受けるそうだ。
一次試験の1日目は筆記試験と対局試験(他の受験者と2局指す)があり、2日目は対局試験のみ(他の受験者と3局指す)がある。
それに合格すれば、翌日の二次試験で、対局試験(奨励会員と指す)をしてから面接試験という流れだった。
ここまで来るのも大変だったのに、こいつの道のりもまだまだ険しそうだな。才介の口から自然と笑みがこぼれる。
「お、うまいな。これ!」
卵サンドはやわらかく仕上げたいり卵と、粒マスタードの入ったマヨネーズ、トマトケチャップのアクセントが癖になるおいしさだった。このクオリティならば喫茶店で出されても遜色はない。
「才介も新人賞に出したんだろ。うはは、どっちが早くプロになれるか勝負だな」
鈴木はいつものように歯ぐきをむき出しにして快活に笑っていた。
そこに不安の翳りはひとつも見られない。大した男だと改めて感心する。
「ああ、のぞむところだ!」
才介も真似をしてニカッと笑ってみた。
教育課程を修了して、社会に出たら、案外何者にもなれず存在意義を奪われるかもしれない。
だけど、努力次第では何者にでもなれるのだ。
努力と覚悟。
サラリーマンになりたい人がいるように、才介は何者かになりたかった。だれかにとっての特別な存在でありたかった。それは絶壁を上るような苦行かもしれない。もしもそうだとしても、小説家になりたいという夢だけは諦められなかった。
「男子っていつも競争したがるよね」
松岡があきれていると、
「私はそういうの好きだよー」
渡辺はのんびり答えた。
そのギャップが面白くて、わははと卒業式にふさわしくないほどの笑い声が所狭しと響き渡った。ふん、こういうのも悪くねえな。才介はそうサンドイッチをつまみながら大口を開けて笑い続けた。




