85.加藤汐文学賞
「彼女はな」
瓜生は本棚から文庫本を一冊引き抜いた。
それはサマセットモームの月と六ペンスだった。
芸術に人生をささげた男の物語だ。
100年以上前に出版されたが、今なお読み継がれる不朽の名作である。
本来の配架図では日本文学と海外文学のコーナーは分かれていたはずだから、利用客が間違って本を戻してしまったのだろう。
「どうしてもお前に小説を書いてほしかったみたいだぜ。ある出版社の編集部から聞いたんだが、思わず笑ってしまったよ。これから私を超える若き才能が世に輩出されることになるから、そのときは私の冠をつけた賞をあげてほしいって」
出版社に対して、そんなことまで言っていたのか。
まあ月の化身は知名度も高いし人気もあるから、彼女の遺志を継ぐ形で自然と誕生するかもしれないし、そうではなくても松本清張賞のように印税を日本文学振興会に譲渡すれば設立できるのかもしれない。
その辺の事情は知らないが、加藤汐の名前がついた賞が設立されるというのであれば、ぜひとも応募したいと思った。彼女ならば遠い月の向こうからでも見守ってくれている気がするから。
「審査員の方々も、加藤汐と親交のあった作家陣が務めるらしい。これからは若い才能を輩出するために、私の印税を使ってください。というのが、彼女の遺言だったそうだ」
すでに設立されていたのか。
くっそ、マジかよ。
才介は破れるほど強く唇を噛んで視線を下に向けた。
こんなにも動揺している姿をライバルに見せたくはなかった。
月の化身は死してなお才介のことを見守るつもりだったのだ。そんなことも知らずに勝手に筆を折ろうとしていた自分が情けない。細く空いた隙間から、ううっと嗚咽が漏れた。
「賞の名前は、『加藤汐文学賞』だ。この賞はプロ・アマ問わずに参加が可能となっている。そしてすでにネット上では、『山本由紀夫』『竹沢弘也』『五十嵐幹久』『古江富美加』『鳥谷莉々七』そして『瓜生安吾』の参加が表明されている。今度は第一線で活躍するプロも交えて、文芸甲子園の面々が集うんだぞ。内容は広義のエンターテインメントだ」
「俺も」才介は言った。「参加する!」
その口元には緊張と興奮による笑みが浮かべられていた。




