表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月が綺麗ですね  作者: オリンポス
第7章 夢破れて山河あり
80/87

80.伊藤汐の本懐

「それからは、人生に、一筋の、光がともった。大袈裟じゃないよ? 本当に」

「うん、俺もそうだ。夢も希望もなくて焦っていた俺をここまで導いてくれたのは、汐ちゃんだ」

 初めてその名前を呼んだからなのか興奮が最高潮になった。もっともっと一緒にいたいと願うのはいけないことなのだろうか。


 お互いなにも言わずに指と指とを絡ませ合う。まさに阿吽の呼吸だ。


 この世界に伊藤汐が生まれてきてくれて本当に良かった。

 自然とこぼれ落ちる涙を彼女は空いた方の手でぬぐってくれた。ニットの毛先がちょっとくすぐったい。男が先に泣いてしまうなんてみっともなかっただろうか。


「才介くん、愛してる」

「ああ、俺もだ」

 伊藤汐と出会ってから才介は変わった。

 ふん、くだらねえ。と吐き捨てていた世界が、特別なものに変化しようとしていたのだ。


 人を好きになるということは、くだらないことではない。

 この世で一番素敵なことなんだと気付かされた。

 それなのに、それを教えてくれた彼女は、もうすぐ才介の目の前からいなくなってしまう。

 こんなに不条理なことがあるだろうか。


「ねえ、ひとつ、約束して」

「なんだ?」

「私がいなくなっても、小説だけは、書き続けて。そうしてくれれば、私は、才介くんの中で、生き続けられるから」

 才介は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりそうだった。

 あわててモッズコートの袖で顔をぬぐう。


「そんなことを言うなよ」と一喝すべく開いた口からは、「ひっく」としゃくり上げるような声音しか出てこなくて、肝心なときには何も言えない自分がひどくみじめだった。


「泣かないで、ください。あの」

「俺がさ、世に出す処女小説は、加藤汐との、合作じゃ、なかったのかよ」

 加藤汐は月の化身のペンネームだ。

 才介の言葉には嗚咽が交じり途切れ途切れになっていた。


「はい。ですから、才介さんの小説に、私を出して」

「どういう、ことだよ」

「私を、モデルにした小説を、書いて、ください。そうだな、『月が綺麗ですね』なんて、タイトルは、どうですか?」

「伝記小説か。それもいいけどよ、汐ちゃんが、いなかったらさ、俺には、小説を書く意味がなくなるぜ」

「なんで、ですか?」

「俺は、汐ちゃんに喜んでほしくて、書いていたんだ。だからもう……」

「才介くん」

 月の化身は才介のほほを慈しむようにそっとなでた。その手にはもう力がない。


「私ね、明日からは、おっきな病院に行くんだ。東京か、国外に、行くと思う。だから、こうして会えるのも、これまで。本当に、最期のわがまま、になる。から、聞いて。ね、私、生きたいよ」

 ぼろぼろと涙を流す少女に慰めの言葉もかけてあげられないまま、才介は獣のように鳴いた。語彙力を失った赤ん坊のように、今の感情を表現するにはそれしかなかったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ