80.伊藤汐の本懐
「それからは、人生に、一筋の、光がともった。大袈裟じゃないよ? 本当に」
「うん、俺もそうだ。夢も希望もなくて焦っていた俺をここまで導いてくれたのは、汐ちゃんだ」
初めてその名前を呼んだからなのか興奮が最高潮になった。もっともっと一緒にいたいと願うのはいけないことなのだろうか。
お互いなにも言わずに指と指とを絡ませ合う。まさに阿吽の呼吸だ。
この世界に伊藤汐が生まれてきてくれて本当に良かった。
自然とこぼれ落ちる涙を彼女は空いた方の手でぬぐってくれた。ニットの毛先がちょっとくすぐったい。男が先に泣いてしまうなんてみっともなかっただろうか。
「才介くん、愛してる」
「ああ、俺もだ」
伊藤汐と出会ってから才介は変わった。
ふん、くだらねえ。と吐き捨てていた世界が、特別なものに変化しようとしていたのだ。
人を好きになるということは、くだらないことではない。
この世で一番素敵なことなんだと気付かされた。
それなのに、それを教えてくれた彼女は、もうすぐ才介の目の前からいなくなってしまう。
こんなに不条理なことがあるだろうか。
「ねえ、ひとつ、約束して」
「なんだ?」
「私がいなくなっても、小説だけは、書き続けて。そうしてくれれば、私は、才介くんの中で、生き続けられるから」
才介は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりそうだった。
あわててモッズコートの袖で顔をぬぐう。
「そんなことを言うなよ」と一喝すべく開いた口からは、「ひっく」としゃくり上げるような声音しか出てこなくて、肝心なときには何も言えない自分がひどくみじめだった。
「泣かないで、ください。あの」
「俺がさ、世に出す処女小説は、加藤汐との、合作じゃ、なかったのかよ」
加藤汐は月の化身のペンネームだ。
才介の言葉には嗚咽が交じり途切れ途切れになっていた。
「はい。ですから、才介さんの小説に、私を出して」
「どういう、ことだよ」
「私を、モデルにした小説を、書いて、ください。そうだな、『月が綺麗ですね』なんて、タイトルは、どうですか?」
「伝記小説か。それもいいけどよ、汐ちゃんが、いなかったらさ、俺には、小説を書く意味がなくなるぜ」
「なんで、ですか?」
「俺は、汐ちゃんに喜んでほしくて、書いていたんだ。だからもう……」
「才介くん」
月の化身は才介のほほを慈しむようにそっとなでた。その手にはもう力がない。
「私ね、明日からは、おっきな病院に行くんだ。東京か、国外に、行くと思う。だから、こうして会えるのも、これまで。本当に、最期のわがまま、になる。から、聞いて。ね、私、生きたいよ」
ぼろぼろと涙を流す少女に慰めの言葉もかけてあげられないまま、才介は獣のように鳴いた。語彙力を失った赤ん坊のように、今の感情を表現するにはそれしかなかったのだ。




