8."月の化身"と"文學"
誘蛾灯が放つ淡いブルーライトは、昆虫でなくとも近寄りたくなる優美な輝きに満ちていた。
バチッ、バチッ、と小気味良く流れる電流の音を聞きながら、才介は公園のベンチに腰を下ろした。
今夜は月が綺麗だ。夜空をいろどる恒星もさることながら、ここから見る月明かりには妖しい魅力があった。
「お待たせしました! あなたがそうですか?」
ふいに耳をつんざく高い音が鼓膜を刺激してきた。森閑とした宵闇とは好対照である。
その少女は月の化身なのではないかというほどに肌が白く、同じ黄色人種とは思えなかった。
上下を灰色のスウェットで包んではいるが、ファッションでそうしているわけはないのだろう。かなりだらしない着こなしだった。
「うるさいなあ。声のボリュームを考えろよ」
相手が女の子だということも驚きだったが、それすらも凌ぐ程の声量に、才介は思わず毒づいた。
「え、あ、はい。あの、すいません」
顔をしかめると、少女はもじもじと小さな手を長袖で隠してしまった。
「家族と主治医以外には、話し相手がいなかったものですから」
たちまち声が小さくなっていく。彼女は小動物のように丸くなってしまった。
「家族と主治医しか話し相手がいないって、お前はいったい……」
何者なんだ。という言葉を寸前で飲み込む。
ただでさえ逃げ出しそうなのに、詰問口調で尋ねたらどうなるかわからない。
「わ、私は、その、夜中しか出歩けない性分でして。だから、えっと、同年代の男性と、お話したこともなく」
「だからそんなに青白い顔をしているのか? 太陽に当たったことがないような」
「そ、そうなんですよ」
「ふうん。じゃあ昼間は何をやっているんだ?」
「えっと、小説を読んだり、書いたりしています。晴耕雨読というやつです!」
少女は蛇に睨まれた蛙ではなく、真っ直ぐな目でこちらを見返す。
その眼差しは宝石のように美しい。鈴木翔太が将棋の話をするときや、渡辺真理子が料理の話をするとき、松岡千歳が音楽の話をするときと同じ目だ。才介が嫉妬したくなる、充実した生活を送っている者の目。
「お隣に座ってもいいですか?」
「ああ」
彼女はだんだんとつかえずに話せるようになっていた。
街路灯の丸い明かりの中に、男女はひっそりと身を寄せ合う。
「私は物心がつく前から本を読んでもらうことが多くて、幼い頃から文芸活動に身をやつしていました。同年代の子ども達とも遊びたかったんですけど、諸事情があるためそれは叶わず、だけどそれでもすっごく楽しかったんです。いつでも小説が私のそばにいてくれました」
少女は昔を懐かしむようにして目を細める。才介はその思い出語りに付き合うことにした。
冷涼な風が二人の間を通り過ぎていく。
「そんなある日のことです。お母さんが私の原稿を読んで、新人賞に応募しちゃったんです。自分勝手ですよね」
「それは、気持ちはわからなくもないけど……」
才介がサッカーを始めたきっかけも、いつの間にかサッカークラブに入れられていたからだった。
だから彼女の心情はなんとなく理解できた。
「そしたら受賞しちゃって、編集部の方があいさつに来て、いろいろと大変だったんですよ」
自分が求めていたわけではないのに、周囲からは過度な期待をしいられる。
中学時代のサッカー部で才介も経験した出来事だ。
「でも不思議ですよね。趣味で書くのと仕事で書くのとでは、楽しさが全然違うんです」
サッカー部のエースとしてチームを牽引したとき、才介も同じことを考えていた。
「じゃあさ、小説を書くのやめたらどうだ?」
そう軽く言葉にしてしまえるのは、自分がサッカーをやめたからなのだろう。後悔はしていないつもりだが、ぽっかりと空いてしまったこの虚無感は埋められないままだった。
「それは何度も考えました。でもダメでした。私はこれしかやってこなかったから、これ以外の生き方がわからないんです」
この女の子はとても不器用なのだとわかった。純粋で傷つきやすいのだ。
だからこそ訊いてみたかった。
「小説は好きなのか?」
「大好きです。プロレタリア文学の小林多喜二も、白樺派の志賀直哉も、アララギ派の斎藤茂吉も……」
「わかった。要は教科書に出てくるような作家が好きなんだな?」
「私は通信教育しか受けていないのですが、学校ではそのようなお歴々について学べるんですね」
「まあな。ライトノベルとかは読まないのか?」
「はい。肌に合わないので」
こうやって言葉を交わすだけでも、彼女の目はどんどんと生気を帯びてくる。
やっぱりこの女の子は、どうしようもなく小説が大好きなのだ。
「小説はどんな人にも平等です。基礎的な文法さえ身についていれば、外国人も障害者も、犯罪者だって作家になれるんですから」
犯罪者はさすがに不謹慎な物言いではあるが、それ故に説得力があった。
小説を書けば何者にでもなれる。そのチャンスは誰にでも平等にあるのだ。
「俺もなんか書いてみようかな」
「本当ですか! 楽しみにしてますね」
彼女はこの景色をどんな風にとらえているんだろう。差別や迫害の意識があっての発言ではないだろうが、少々世間ずれしているところが気にもなる。語彙が豊富になると、人生が豊かになるという。才介は彼女と同じ景色を共有してみたくなった。
「今夜は月が綺麗だな」
そう隣を見ると、
「え、そんな、私達、初対面じゃないですか!」
どういうことか彼女はそう上気した声を発した。
「こ、今度会ったときに、してください。そういうのは」
動揺している理由は不明だが、照れている彼女も少しかわいいなと、才介はほほの筋肉を緩めたのだった。