77.突然の凶報
「そっか。まだ聞いてなかったのか」
どこか感情の起伏を抑えたようなその物言いに、才介はさらに不安を募らせた。
なんだ、まだなにかあるのか? その声は全国の将棋大会で敗戦するよりも強いショックを受けているように感じられた。まだ聞いていないということは、いずれ聞かなければならない凶報ということだろうか。
「伊藤汐さんが、倒れた」
「なっ……」
才介の思考は、一瞬、停止した。
それは想定外の角度から脳天を貫く弾丸だった。
「じょ、冗談、だろ……」
ハハ、と力なく笑うと凝り固まった表情筋が引き攣って痛かった。
自分の顔なのに、他人の顔を操っているような奇妙な違和感を覚えながら、冗談だよな。と、すがりつくような言葉が口から滑り落ちてくる。もしも本当だとして、それならどうして月の化身はなにも教えてくれなかったのだろう。あり得ない。あり得ないはずなんだ。そんなこと、あっていいわけがない。
だってあんなに元気だったじゃないか。初めて会ったときのウブな会話や、小説に対するときの純粋なキラキラした瞳、容赦なく才介の小説を酷評したり、激怒したときの表情は今でもまぶたの裏に焼き付いている。
学園祭で文芸同好会と対立したときも彼女は知恵を貸してくれたし、キスを交わしたときの背徳的な唇の感触はきっと生涯を通じて忘れることはないだろう。夏祭りでの彼女はすごく素敵だった。そこで彼女の名前を知り、最年少芥川賞受賞作家であることを知ったのだ。文芸甲子園に出場することは教えただろうか。どちらにせよ彼女ならば大手を振って応援してくれたのだろう。
「ああ、なんでだよ……」
伊藤汐との出会いが走馬燈のように流れた後に、なんだか無性に腹が立ってきた。才介は電話越しの相手を無意味に怒鳴り散らす。
「なんであいつが倒れなきゃなんねえんだよ! あいつは、あんなに、元気だったのに……」
「これは言いにくいんだけど、才介」
頭が割れそうだ。もうなにも聞きたくなかった。
「彼女は、お前に会うために、検査入院を抜け出していたらしい。夜間診療は常駐の医者がすくなくなる。それは彼女の病気と照らし合わせても都合のいい出来事だったんだ。夜しか外に出られないから、毎晩お前に会いに行っていたんだよ」
ううっと嗚咽が漏れる。もう吐きそうだ。
「だけど夜の街って、太陽光じゃなくても紫外線が多いだろ。それが彼女にとっての規定量を超えてしまったらしいんだ」
そんなバカな。
太陽に当たるとやけどするってだけじゃないのかよ。
そんな理不尽なことがあってたまるか。
「彼女はどこの病院にいる? 伊藤汐に会いたい!」
「わからねえ……」
「はっ?」
「いくら伊藤四段でも、そこだけは教えてくれないんだ。鈴木さんは将棋の腕を磨いてください。姉のことは大丈夫ですからって。気丈に振る舞ってはいるけど、先生だってきっと辛いはずなのに……」
「だったら伊藤四段に繋いでくれ。俺なら無関係じゃないし、面会くらいならさせてもらえるはずだ」
「……無理だよ」
「いいから繋げよ!」
「今は集中治療室にいて面会謝絶らしい」
「じゃあそれが終わったらすぐにでも病院を教えてくれ。もしも説得が必要なら、俺が伊藤四段と話し合う」
しばらくの沈黙があった。
だが、意を決したように鈴木は口を開いた。
「……わかった」
その返事はあまりにも弱々しかった。今回ばかりは鈴木でも荷が重いようだ。
それでもやるしかない。
才介はアプリケーションを起動する。今度の案件は自分の問題だ。才介はどうしても彼女に会わなければいけない気がした。




