75.孤独の夜空
才介は久しぶりに全国の暇人とチャットが出来るという例のアプリを起動した。理由はたったひとつだけ、とにかく月の化身にコンタクトをとって文芸甲子園の話をしてみたかったのだ。
あの敗戦以降は一切の小説を書く気力が消失していた。
そんな才介を彼女は叱ってくれるだろうか。
『よう久しぶりだな。今から会えないか?』
とくに何をすることもないまま日は沈んでしまっていた。
外はかなり冷え込むが、紫外線アレルギーだという彼女を日中に連れ出すことは出来ない。
ごうごうと唸る石油ストーブをただ黙って見つめる。室温と設定温度が離れているときはやかましかったそれも、室内が暖まるにつれて音も気にならなくなっていた。
なにも考えていないはずなのに、頭の中はもやもやと鬱屈とした感情をため込んでいて、しかもそれはトゲトゲのような形をして脳内で暴れまわっているからひどく不快な頭痛がした。
スマートフォンを手の平に載せてぼうっと通知を待ってみる。
才介の思考は床屋の回転灯みたいに同じところをぐるぐるとなぞるだけで建設的なアイデアを生産することはなかった。
ふうとため息を吐く頃には給油ランプが光っていて、規則的なメロディが部屋中を支配した。
「ふん、くだらねえ」
ストーブの電源を切って給油缶を取り出す。
「いつまでも考えたって仕方ないだろ。それよりもなにか書かないと瓜生に追いつけなくなってしまう」
自分に言い聞かせるように呟いて、赤いポリタンクに給油ノズルを差す。その動作はいつもよりも緩慢だ。こうやってなにかの作業に没頭していないとまた負のスパイラルに嵌まってしまうからそれから逃れるためだろう。部屋に戻って給油缶をストーブにセットする。しばらく時間を空けてから電源ボタンを押した。
「さてさて月の化身からは連絡が来たかな?」
勉強机に置きっぱなしにしていたスマートフォンを確認するが、彼女からの通知はなかった。なぜだか泣きたいような寂しい気持ちに駆られる。
もしも彼女に会えたとして自分はどんなことを言うのだろう。慰めてほしいのか、励ましてほしいのか、叱ってもらいたいのか、もう感情に整理がつかなくなっている。
月の化身は今までずっとひとりで小説を書いてきた。
それがどんなに孤独で寂しいものなのかは筆舌に尽くしがたい。小説家はどうしても他人からの評価を気にせずにはいられないのだから、挫折を経験したときに彼女はいかにしてそれを乗り越えたのだろうか。
夜空を見上げて伊藤汐のことを想った。
今夜は星空も月明かりも見えない。
彼女は元気だろうか。音沙汰がないことがすこし気にかかった。




