68.由紀夫にとっての小説
ホテルのディナーは豪華だった。
立ち喰い形式のビュッフェスタイルだが、ふかひれスープやズワイガニ、A5ランクの牛肉も食べ放題なのだ。
照明もおしゃれで、薄く照らし出された料理は光り輝いている。
シェフも和洋中でそれぞれに厨房を持っており、新鮮な料理を提供してくれた。
才介は丸い皿にサラダを盛り付けながら胃のあたりがムカムカするのを感じていた。青じそドレッシングをかけながら眉間をつまむ。部屋で休んだはずなのに食欲がほとんどない。食堂に来たのもお腹が空いたからではなく生活習慣を変えないためだった。ベストなパフォーマンスを発揮するためにはいつも通りでいることが欠かせない。
「こんばんは。村上才介さんですよね」
紺色のブレザーに身を包んだ幼い顔立ちの少年は気さくに話しかけてきた。
どこの中学生だよと才介は聞き返そうとして、あわてて言葉を訂正した。
「はじめまして。山本由紀夫さん」
「ぼくのことは呼び捨てでいいですよ。才介さん」
彼は無邪気な笑みを浮かべてローストビーフを皿にのせる。唐揚げにとんかつにハンバーグに、その円形の陶器は茶色で満たされていた。野菜は食べないのだろうか。
「そうか。由紀夫、野菜も食べたほうがいいぞ」
作家としてのキャリアは下だが、さすがに年齢は上回っているだろうと先輩風を吹かせてみる。由紀夫は明らかに嫌そうな表情を見せて、「おいしくないので食べたくないです」と反論してきた。六文仙と称されているから身構えたが、思ったよりも子どもっぽい性格だった。
「まあいいけどよ。一緒に食べるか?」
「はい、ぜひっ!」
その反則級の笑顔に、同性でありながらドキッとさせられた。フローラルのいい香りがする彼をすこし観察してみる。色白で眉毛は薄い。身長は170cmにも満たないくらいだ。特筆すべきはその純粋な瞳。何もかもを見通すような綺麗な目をしている。それこそ月の化身と同じような穢れを知らないまなこだった。
「由紀夫にとって小説ってどんなものなんだ?」
六文仙とまで呼ばれている天才の答弁には興味があった。ポテトサラダを口に運びながら聞いてみる。
「小説ですか。うーん、ぶっちゃけ書きたくないですね」
「は?」
この小僧はいきなりなんてことを言うんだ。マスコミが聞いていたら明日の朝刊に載るぞ。
「でも書かずにはいられないんですよね。今日はご飯食べたくないやーって思ったとしても、お腹が空いたら食べますよね。それと同じで、ぼくにとっての執筆は生理現象なんですよ。それをしないと死んじゃいます」
「なっ……」
その答えは想像を絶していた。
この人物はなるべくして天才になったのだ。
ここまで小説に取りつかれたらどんな気分なんだろう。
その狂気的な世界観は月の化身にも通じていた。
この人種は死ぬまで小説を書き続けるのだろう。
それは本人の意思とは関係がなく、書かずにはいられない呪いのようなものなのだ。
「才介さんにとって創作とはどういうものですか?」
ハンバーグをフォークで切り分けつつ、由紀夫は才介に視線を送った。
「創作?」
まさか自分にも質問が飛んでくるとは思わなかった。「ええっと」とフィラーを駆使して思考の時間を確保する。
「創作はコミュニケーションの手段だと思う。自分はこんなことを考えてるんだよって伝えるための手段。会話が短期的なコミュニケーションだとすると創作は長期的なコミュニケーションかな……」
由紀夫はあまり納得していないような顔をしていた。すこしムッとしてしまう。
「あんたはどうなんだ? あんたにとって創作とは?」
「え、ぼくですか?」
彼はドリンクバーのコーラを飲んでから、そのグラスをテーブルに置いた。
「自己に内包された世界を開放する作業ですかね」
「え、なんて?」
いきなり哲学者みたいなことを言われた気がする。
理解が追い付かない才介のことは無視して由紀夫は続ける。
「人はそれぞれ大なり小なり自分だけの世界を持っていると思うんです。作家はそれを伝えるために表現や技術を学びんでいきます。そうしないと、自分の世界に現実世界が押し潰されてしまうから……。だからその自分の世界をみんなで共有するために筆を執るのではないでしょうか?」
子どもっぽい性格なのはともかく、やっぱり彼は六文仙だった。使っている言葉からして何を言ってるのかよくわからない。
「あ、そ、そうなのか。それはよかったな」
何がよかったのかはともかくとして、そんなふうにして話を切り上げる。そうしないとまた変なことを聞かされてしまう予感がしたからだ。
「そういえば、由紀夫はなんで小説を書こうと思ったんだ?」
才介はそう机の下で脚を組む。
なんだか大御所と向かい合っている感じがしなかった。




