67.古江富美加の目標
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。ただ胃痛がするの。創作って過去との対決だからさ、毎日トラウマと向き合っているのよ」
この人はそんな神経を削るような書き方をしているのか。
だからこその共感度、だからこその透明感なのだとしたら、文体からにじみでる得体のしれない迫力はそれが原因なのかもしれない。才介はあえてその話題を避けることにした。
「古江さんはどうして小説を書いているんですか?」
そこまで執筆がつらく苦しいものならば、いっそ筆を折るのもありだと思う。
「私みたいに心が弱い人ってたくさんいると思うんだ。でも、そういうことってだれにも相談できないでしょ。なんか重い人って思われちゃうじゃん? だからさ、困ってる人に寄り添ってあげられる、そんな心の処方箋みたいな小説を書きたいなって思ったんだ」
彼女の目からは涙が溢れていた。それを隠すように目元を本で覆っている。
「辛いときは自分だけなんだ。ひとりぼっちなんだ。ここにいちゃいけないんだ。そう思っちゃうけど、違うんだよって。私がそばにいてあげるよって、そう教えてあげたくてさ。この世界は優しい人には厳しいんだよ」
うう、とえずく声を無視して、才介は棚から本を抜き取る。
彼女は思ったよりも繊細だった。だれよりも傷付きやすく、だれよりも優しい。
人の痛みがわかってあげられる。とても素敵な人だと思った。
「村上君……は、さぁ」
しゃくりあげるようにして彼女は言葉を紡ぐ。
小説を書くときも、きっとこうして涙を流しながら執筆しているのだろう。
心の内側が引っ掻かれるように痛んだ。
「な、んで、しょ、小説、書いてるの?」
みんなそれぞれに信念を持っていてすごいな。
才介はそう思いつつ答える。
「それはわからねえ。理由なんてないのかもしれない」
「それは、ウソ、だよ。ここまで残ってるんだから、きっとある、理由」
才介はアゴに手を添えて、
「好きな人が小説を書いててさ。俺も小説を書けば、喜んでもらえるんじゃないかって、そんな動機で始めたんだ。そしたら夢を追うことって、すげー楽しいし充実してるなって気が付いて、そしたらやめられなくなってた。そんなところかな」
笑えるよなと締めくくったが、彼女は笑ってはいなかった。
泣いてもいない。真剣な顔で聞いている。
「そうなんだね。でも、私は負けないよ」
古江富美加の小さな宣言が、資料室に控えめに響いた。




