6.松岡の歌唱力
カラオケルームの防音扉でも隠し切れない驚嘆の声が、廊下にまで響き渡った。
その耳をつんざくような音量に才介は顔をしかめる。
「うるせーよ、鈴木」
「うはは。わるい!」
鈴木は歯ぐきをむき出しにして、片手を挙げてあやまる。
渡辺真理子は拍手をしながら、すごいねー、と褒めたたえている。
「そんなことないよ。プロにちょっと近付いただけ」
そうマイクを握っている松岡千歳は謙遜するように首を振る。
肩までかかる長い髪があでやかになびいた。
彼女はインターネット上の動画投稿サイト『歌ってみた』にて絶大な人気を誇っていたが、ついに大手レコーディング会社からお声がかかったらしい。
「オーディションを受けてみないかって誘われただけだし、私よりも人気の歌い手さんはいっぱいいるよ」
松岡千歳は高い歌唱力だけでなく、その豊かな表現力に定評があった。
曲調や歌詞によって声の表情ががらりと変わる様はまさしく万華鏡である。
「オーディションは受けるのか?」
才介は嫉妬と羨望が入り交じった感情を押し殺して訊く。なんだか冷たい声になってしまった。
「もちろんそのつもりだよ」
松岡はドリンクバーのグラスを傾ける。のどを鳴らしながらウーロン茶を飲むと、
「鈴木くんもプロ棋士になるために将棋会館道場に通っているんだよね?」
「うはは。たまに通ってるだけだけどな」
そうなのか。才介はそう目を見開く。
あっけらかんとしているように見えるが、鈴木はきちんと研鑽を積んでいたのだ。
「どのプロ棋士に師事するかが、この世界では大きな分岐点になるからな。きちんとした交流を持ちたいんだ」
そうなのか。
鈴木はプロ棋士に、松岡は歌手になろうとしているのか。
だったら両方とも落ちればいい。俺と同じ落伍者になればいい。
才介は友人の夢を素直に応援できない自分を、心の底から非難した。
だけどこうすることでしか自我を保つことが出来ないのだ。
担任の先生からは進学にするか就職にするか、早いうちに決めるよう急かされた。
俺はこれからどうすればいいのだ。答えのない禅問答を繰り返すが、どちらを選ぶにせよ、前門の虎後門の狼というような気がする。
『才介はまだいいじゃねえか。俺なんてプロ棋士志望だぜ』
オラウータンはそう慰めたが、そうではないのだ。
それがどんなに困難な目標であっても、目指すところがあるから進んでいけるのだ。どこへ行けばいいのかわからない才介には進むことすら出来ない。