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月が綺麗ですね  作者: オリンポス
第5章 伊藤汐と刹那的な美学
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56.全国オール学生将棋選手権戦

 ここには本棚がないから、小説や、それに関する資料(方言や国語に類する辞典等)はフローリングの上に平積みにしていた。その居住スペースは呆れるほどに散らかっていて、空き缶やちり紙なんかもその辺に丸めて捨ててあった。ゴミ出しに行く頻度も減って、45リットルのポリ袋が何袋か玄関口に置いてある。


「うはは。才介はもっと綺麗好きだと思っていたぜ」

「ここのところ忙しくて、掃除する暇がなかったんだ」

 才介は客人をもてなすために参考資料を片隅に寄せた。そこには大量の綿ぼこりが溜まっていた。ネズミと同等くらいのサイズであった。

 鈴木は将棋盤を床に立てて、駒を並べ始めた。パチンパチンと木製の板が良音を響かせる。


「待たせたな」

 そう振り返ると、彼は眼鏡を人差し指で押し上げているところだった。盤上を見る。すでに振り駒はされていた。周到だ。歩と書かれた駒が過半数を占めていた。


「うはは。俺が先攻だ。異存はないか?」

「ない」

「うはは、対局開始だ」

 横には電子タイマーがひとつ設置してあった。


 才介の思考時間は無制限だが、鈴木には制限時間が設けてある。プロ認定試験を見越した実践的な訓練だ。

「その学生だけの全国将棋大会はいつやるんだ?」

 交互に一手ずつ指していく。

 才介は将棋の指南書も購入していた。それは基本的な陣形を学ぶためであったが、勉強すればするほど奥の深さに驚かされた。


 例えば、『居飛車穴熊』という戦法がある。防御は鉄壁だが組み上げるのに時間がかかることで有名だ。実際に将棋ソフトでやってみると、まったく通用しない手であった。火力が弱く、端攻めに弱いのが原因だった。


「全国オール学生将棋選手権戦のことか?」

 即答、早指しだった。

 鈴木にはマニュアルなど通用しない。

 それでも居飛車穴熊を使うことにした。

「そうそれ。何人くらいが集まるんだ?」

「前回の個人戦は242名が参加した。うはは、集中力を乱す作戦か?」

 囲いを完成させるのは時間がかかる。そのため牽制を入れようと思ったが、機先を制された。


 単純に頭の回転が速いのか、読まれていたのか。

「鈴木も大変だな。そこで活躍しないと、八月にある奨励会の入会試験を受けられないんだろ?」

「受けられないことはないが、うはは、伊藤四段の推薦がほしいからな。そのためには学生選手権は制しておきたい」

「将棋のことはよくわからないが、学生棋士っていっぱいいるんだな?」

「うはは、勘違いしていないか?」鈴木は防御陣形を組ませない。「小、中、高、大、大学院生が参加するんだぜ?」

 大学院生だって? 高校生よりも経験が豊富じゃないか。

 小説と同じで、将棋も(とう)が立っていれば有利ということはないだろうが、それでも多少のハンディキャップは禁じ得ない。


「高校生が優勝した事例はあるのか?」

 中途半端な陣形が最ももろい。才介は堤防に穴が開いて瓦解していく様を鮮明に想起した。

「うはは、もちろんあるぜ。高校生の勝率は、約13%だ」

 まさに燎原の火。草原に燃え広がった火炎はとどまるところを知らない。鈴木の攻めはそれほどまでに苛烈だった。


「それは……」

 それはあんまりだと言おうとしてやめた。

 茨の道を選んだのは彼自身だ。そこがどれだけ過酷な競争社会でも、才介にはどうすることも出来ない。

「うはは、笑えねえけどよ、要注意項目はそれだけじゃない」

「え?」

 気が付くと盤上の持ち駒はほとんどいなかった。相手の寄せもかなり激しい。籠城戦法を決め込んだ王将もこれでは風前のともしびだ。


「小学生将棋名人戦の元王者、渡辺光も出場予定なんだ」

「そいつは小学生なのか?」

「うはは、言い方が悪かった。同い年だ。そして奨励会にも入っている」

 奨励会。将棋界のプロ養成所。

「俺も早く奨励会に入会しないとって、いつも焦ってるぜ。満21歳までに初段になれなかったら、どちらにせよ退会することになるからな」


 知らなかった。いつもでかい口を広げて、「うはは」と哄笑するから悩みなんかないと思い込んでいた。

 夢はときどき残酷な現実を目の当たりにさせる。才能という名の障壁は、だれにでも平等に存在していた。


「うはは、王手だぜ」

 王手という言葉が耳膜に反響して胸を苦しめた。

 俺はバカか。松岡も渡辺もきっと苦しかったはずだ。夢を追うってことはそういうことなんだ。

 なんで励ましてやれなかった。なんで大丈夫だよと声をかけてやれなかった。

「参りました」

 だけど今なら言える。夢を追いかける辛さとか、孤独とか、やっと理解出来るようになったんだ。


「うはは、忙しいところ悪かったな」

「またいつでも相手になるから、機会があったら誘ってくれ。俺も、力になりたい」

 鈴木はオラウータンのように歯をむき出すと、一段と大きな口で笑った。

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