49.選択性緘黙症
才介は密会現場を押さえられた芸能人のような気持ちになった。月の化身との関係は二人だけの秘密だった。
べつに隠していたわけではないが、公にはしたくなかったのである。
背徳的な付き合いが彼らを特別な感情にさせてくれたのかもしれない。駆け落ちではないが、今まではそういうスリルがあった。
だれにも知られないで出会いを重ねるのは、火遊びをする子どものように興奮した。
「ああ、小説の息抜きにな」才介はポーカーフェイスで応じる。「それよりその男の子はだれだ?」
「伊藤四段だ。うはは、今日は対局予定がないらしいから誘ったんだ」
目線を転じると、中学生プロ棋士は月の化身となにやら談笑していた。先程の発言から推察するに姉弟なのだろう。
プロ棋士だなんだとメディアに注目される伊藤四段も、プライベートでは普通の子どもだった。すこし安心する。
「初めまして。姉がいつもお世話になっています」
唐突に、伊藤四段が頭を下げてきた。お面の輪ゴムが髪の毛の生え際で止まっている。
「ああ、どうも」と才介もあわてて会釈を返した。
「姉は選択性緘黙症なのですが、ご迷惑をお掛けしませんでしたか?」
中学生にしてはかなり大人びた質問だった。これも一挙手一投足がマスコミに取り上げられるせいなのだろうか。
そんなことを思いながら、才介は『選択性緘黙症』とは何かを尋ねた。
「コミュニケーション能力はあるけど、家族以外とはあまり会話が出来ない症状です。精神疾患が原因と考えられています」
ざっくばらんに説明されてピンときた。家族と主治医以外には話し相手がいないとは、緘黙症のことも表していたのだと知った。
「だから最年少で芥川賞を受賞した際も、授賞式に参加出来なかったんです」
「最年少芥川賞だって?」
「あれ、ご存じないですか?」
「ちょっと賢太。その話はまだしてない」
月の化身は浴衣が乱れるのも構わずに小物入れを振り回した。
理解が追い付かない。目の前にいる人物が、最年少芥川賞受賞作家だと?
「ペンネームは加藤汐。本名は伊藤汐です」
奇妙な話だが、才介はここで初めて彼女の名前を知ったくらいである。
加藤汐の小説は後学のために読んだことがあるが、彼女が書いているとは思えないくらい端正な文章だった。
古風ではあるが、決して古臭くない。
温故知新というのか、堆積された先人のレトリックを用いながらも自分なりの解釈で表現されていて、その圧倒的な技術力の差に感動したほどだった。
「すげえ」
「あの、違うんです。隠していたんじゃなくて……」
「うはは。同じ作家として才介も負けてられなくなったな」
同じ作家という言葉に引っ掛かりを感じた。比較するなどおこがましいと思ったからだ。
文筆家として成長を遂げた才介はその実力差を肌で感じている。彼女と並んだら、自分の書いている小説など児戯に等しい。
瓜生に吐かれた暴言もいささか間違いではなかったのだ。
「あ、鈴木さん。じゃがバターの屋台がありますよ。行きませんか?」
どよんとした空気を悟ったのか、伊藤賢太はそう沈黙を破った。
「うはは。いいぜ」
鈴木も彼に随行する。
「そのあとは射撃しましょうよ。勝負です」
「いいぜ」雑踏に向かって足を踏み出しながら、「じゃあな、才介」
オラウータンは中指で眼鏡を押し上げた。伊藤四段は笑顔で手を振っている。才介たちも手を振り返して、子弟を見送った。
「いろいろ、聞きたいことはあるんだけどさ」
鈴木が人混みに飲まれて見えなくなってから、才介は静かに言った。
手に力が入ったせいでプラスチックの空容器がひしゃげる音がした。
「ほかの屋台も見て回ろうぜ。クレープとかチョコバナナとかさ」
「ええ、そうですね」
それからの月の化身はあまり元気がなかった。水色の浴衣やピンク色の帯は新品同様に綺麗で、そこだけが明るく目立っていた。




