45.文章の仙人
週末に夏祭りが開催されると才介に伝えてから、吉川愛は膝の上にブランケットを掛けた。
八月も末頃になってくると秋の訪れを感じさせる。開け放しになった窓からときどき流れ込む風が、半袖のむき出しになった地肌をそっとなでる。
薄着になる者はまだまだ多いが、夜間に近付くと、人々は着込むようになってきた。
「ふーん、そうなのか。忙しいから俺は無理だ」
喫茶店で抹茶オレを飲みながら才介は言った。
フローズン状の液体を胃に入れると体温が下がって、むしろ寒いくらいだった。
ここは下校途中の学生客が多く、きゃははという嬌声が耳障りなほど店内に響いていた。
「釣れないですねー」
もう、とむくれるツインテールの少女に、俺は魚じゃねーからなと言い返す。
推理小説の完成はもう視野に入っている。
だが、作品数が全然足りていなかった。
B5判の紙をホッチキスで綴じるにしてもそれだけでは内容が充実しない。
吉川に頼んでファンタジー小説と恋愛小説を執筆してもらい、それを載せる許可は得た。
しかし、校閲する作業もあるから気は抜けない。彼女の作品が掲載に値しない駄作である可能性も踏まえて、才介自身なるべく書き溜めておく必要があった。
とにかく時間がないのだ。その工程において女の子と無駄に一夜を過ごすなど言語道断である。
「先輩はすこし頭が硬いです」
「どこがだよ。柔軟にプロットを練っているだろ」
「そっちじゃないですよ」
はー、本当に小説のことしか考えてないですね。
そう肩を落とすと、吉川はストローを回してアイスティーをすすった。
氷の触れ合う音が風鈴の音色であった。
「頑迷固陋だって言いたいんです!」
「まあ古典文学も勉強してるからな。考え方が古いのかも」
「そうじゃなくて」
彼女はなにか言おうと眼差しに力を込めたが、
「やっぱりいいです」
「締め切りが近いとフラストレーションが溜まるからな。イラつく気持ちはわかるぜ」
抹茶の液体を吸うと、シャーベットではなくなっていた。
「あの、先輩!」
吉川は赤い顔をしていた。
ブランケットなど掛けているから寒いのかと思っていたが、暑いのだろうか。
「先輩は好きな人と、お祭りに行きたいと思わないんですか?」
言われて、月の化身が脳裏に浮かんだ。
吉川愛に告白したことなど、毛ほども覚えていない才介は、
「まあ、小説のネタにはなるだろうからな。そういう意味では行きたい」
「じゃあ、いっしょに、行きませんか?」
彼女はとつとつと言葉を噛みしめるように、ゆっくりと口を動かした。
その度に二房の半月は上下して、恋の行方を見守っている。
「うーん。ここのところ、忙しいからな」
「ちゃんと浴衣も着ますよ。手とかも繋いだり、したいです」
祭りかあ。才介は視線を遠くに投げる。
祭りは幼少期を境に行っていなかった。
興味がなかったわけではないが、自然と疎遠になっていたのだ。
何か打ち込めるものがほしくて、でもそれが見つからなくて、そんな焦燥に駆られる時期だったから、俗世間とは距離を置いていたのかもしれない。
楽しそうに生きている人間を見るのが、怖かったから。
「同級生で好きなやつとかいないのか?」
「いませんよ。前は瓜生先輩が好きでしたけど」
そう唇をとがらせる吉川に、
「じゃあ、瓜生を誘ってみればいいじゃんか。あいつも喜ぶんじゃねーのか?」
「瓜生先輩には、満島先輩がいるじゃないですか。かわいくて、詩もうまくて、現代版の六歌仙とも称されるあの人に、私なんかが敵うわけありませんよ」
「六歌仙ってなんだ?」
それとも落花生だったかな、と訊き返すと、吉川は失笑した。
「先輩は傍若無人ですね。そんなことも知らずに宣戦布告したんですか?」
「ああ、そうだけど。落花生はそんなにすごいやつなのか?」
「六歌仙ですよ。落花生ではありません」
彼女がいまだにくっくっと笑うので、才介は居心地が悪くなった。
吉川の説明によると、六歌仙というのは日本の有名な歌人らしく、小野小町や在原業平がそれにあたるのだという。
「現代版の六歌仙ってことは、あの高飛車な女が歌の名人ってことか? 似合わねー」
「笑いごとじゃないですよ。もっと危機感を持ってください」
「おもしれぇじゃんか!」
ついつい口角が上がってしまう。心臓が高鳴り、胸が躍る。
自分よりも格上を相手にすると楽しくて仕方がない。昔からそうだった。
「燃える展開じゃねーか!」
「相手は満島先輩だけじゃないですよ」
はあ、男の子ってどうしてみんなこうなんだろ。
吉川はそう嘆息して、あきれたように目を細めた。
「六文仙って知ってますか?」
「六文銭? 真田家の家紋か?」
「なんでそっちを知ってるんですか!」
「六文銭がどうかしたのか?」
「真田の家紋ではなくて、六人の文章の仙人のほうです」
「知らねえ」
「ノーベル文学賞を受賞した、川端康成さんや大江健三郎さん、カズオイシグロさんに匹敵する文章力を持った作家を総称して、六文仙と呼ぶようになったんです」
文章の仙人。
そんな話を聞かされると、ひとりの作家として対抗心を燃やさざるを得ない。
「それは六人だけなのか。当該作家の名前を冠した文学賞との関係性も知りたい」
「ううん、饒舌になりましたね。なんと言いますか、ノーベル文学賞に最も近いとされる、存命の日本人の六名が六文仙です」
「六人にした理由は?」
「六歌仙になぞらえたそうです。また文芸評論家が独自で発表しているので、文学賞受賞の有無は選考基準には含まれないそうです」
「そうなのか。それが瓜生となにか関係があるのか?」
「瓜生先輩は六文仙のひとりに勝利したことがあります」
「え、そんなにすごいやつだったのか?」
「いくら六文仙でも、その文学賞に合った題材を選ばなければ、負けることだってあります」
「瓜生はその六文仙をおさえて、文学賞を受賞したんだな」
「はい。瓜生先輩と六文仙の両人が最終選考まで残ったんですが、かなりの僅差だったそうですよ」
ということは、瓜生は大衆文学ではなく、純文学よりの文章なのだろう。
六文仙が応募するくらいだ。エンターテインメント性は低いと見積もられる。
抹茶オレに口をつけるともうぬるくなっていた。
「小説の話はここまでにして」
もうすこし聞きたかったが、吉川は強引に打ち切った。
「一緒に夏祭り行きませんか?」
「うん、考えておくよ」
そう遠回しに断ったつもりが、
「色よい返事を待ってます」
満面の笑みを浮かべる彼女を見ると、なんだか胸が締め付けられる思いがした。




