42.神が舞い降りる
帰宅してしばらく経ってから勉強机に向かう。楽しみなんかまるでなく、義務感だけでこの作業を続けてきた才介だが、完全に暗礁に乗り上げてしまった。陰鬱な気持ちをこらえながら液晶画面とにらみ合っていると孤独にさいなまれてしまいそうだった。
今回の推理小説は手書きだけに終始せず、パソコンも使用することにしていた。
手書きならば難読漢字を減らせるし、パソコン入力ならば原稿を仕上げるペースが格段に早くなるというのが理由だった。
しかしそこまで手を尽くしても乗り越えられない壁が、今まさに厳然とそびえ立っているのだ。
「畜生……」そう頭を抱えてしまう。
原因は簡単だった。
肝心のトリックを棚上げにしてしまったせいで、物語の骨格が出来つつあるのに思うように筆が進まないのだ。そこが決まっていないと伏線も立てられないし、いよいよもって困窮せざるを得ない。
「どうすればいいんだよ!」
そう叫んで、頭皮をガシガシこすると髪の毛がパラパラと抜け落ちてキーボードの上に散った。
もう投げ出してしまいたかった。こんなにつらい作業になるとは思っていなかった。
それでもわけのわからない使命感だけは強迫観念のごとく去来して、それを頼りに手を動かすことが出来た。執筆は亀の歩みでもそれなりに進んだ。そんな折に、みたび頭痛が発生した。今度のはなかなか鎮まる気配がない。
才介は薬局で買った解熱鎮痛剤の箱を破り捨てて、錠剤を指定よりも多く服用した。痛み止めはイブプロフェンの含有量によって効きが違うのだという。それを摂取しすぎると副作用が生じるため、市販ではあまり強力なものは置いていないらしい。
薬局の店員に片頭痛を訴えると、病院に行くようにすすめられた。
しかしそれで執筆量が減ったら本末転倒だろうと判断し、才介は錠剤の過剰摂取で急場を凌ぐのだった。
まぶたが重く、身体がだるくなる。薬がよく効いている証拠だ。
それと引き換えに、思考は安定しない。磨りガラス越しの景色のように意識がぼやけてしまうのだ。
急いでエナジードリンクを飲んだ。
冷蔵庫から取り出したアルミ缶は気持ちのいい冷たさで、プルタブを起こしたときの臭いは強烈だった。
こんなことをしていれば身体を壊すきっかけになる。
頭ではわかっていても意識を覚醒させる手段はこれしかなかった。
実際にそれを飲んでからは筆の速度がみるみる急上昇していた。
乱視でもないのに目がぼやけて誤字脱字が増えることはあったが、それを差し引いてもエナジードリンクの効果は絶大だった。翼が生えてどこへでも飛んでいけるような全能感に満たされた。
指が動いて、スムーズにキーボードを叩けるのがストレス解消にも繋がった。
いけいけ、突っ走れ。そう登場人物を動かしていると不思議なことが起きた。自分の手足であったはずの登場人物が、才介の末端神経を離れて独立して動き始めたのだ。
苦痛と苦悩にさいなまれながらも、打開策のひとつも出てこなかったトリックが、ぽんと眼前に躍り出た。
それは決して大袈裟ではなくて、液晶画面を見ていた才介すら、あっと驚かされたほどだ。よく「神が下りてきました」と演出家は語るが、今回の現象もまさしくそれだった。
全くの不意急襲で予想外のところから推理のネタが転がり込んだのだ。
とくに企図していなかったが、事件内容も冒頭の雰囲気を汲んだものになっていた。
「完成度が高い作品は、キャラがひとりでに、動き出すんですよ。私はそこに、カメラを向けて、文章という名の映像を、お届けするようにしています」
いつだったか月の化身と会ったとき、彼女はそんな話をしてくれた。
なるほど。そういうことなのかと、膝を打つ。
キャラクターがプロットから逸脱した行動をとるのは問題だが、こういった余白にアクションを入れてくれるのは非常に助かった。なんというか、ひとりではないような気がした。キャラは役者で、作者は映画監督。みんなで良い映画を作ろうと知恵を出し合う感覚だ。そんな奇妙な体験が、この夜は起きた。




