41.顔色が悪いですよ
才介のブログに反響があったのは、開設してから1週間が経過してからのことだった。
それまでさんざ吉川にバカにされてきたが、ようやくコメントがもらえたので、これで一矢報いることが出来たはずだ。
日記にはちらほらと感想が書かれていたが、小説も評価されたのだから喜ばずにはいられない。
「どうだ」
スマートフォンに自分のブログを表示して、吉川に渡した。
放課後の図書室にはほとんど人がおらず、カチカチと動く秒針の音だけが大きく響いていた。
閉め切ったはずのブラインドカーテンからは、細い緋色の光線がちらとうかがえた。
「はじめまして。拝読しました。高度な言葉遊びに感動を覚えます。オチは辛辣でしたが、社会の厳しさが感じられますね。応援ぽちです」
彼女は声に出して読み上げると、才介にスマートフォンを返した。
うーんと唸ってから、やりますねと口にした。
「正直なところ、ひとつももらえないと思っていました」
「マジかよ」
「マジです」
「しかし、なかなか感想って書いてもらえねーんだな」
「面白くなかったらスルーしますからね」
「そうだよな」
才介はそう言って、手書きの原稿を取り出した。
それは学園祭で売り出すつもりの推理小説だった。
「これ、途中までだけど読んでくれよ」
商業小説だからブログに載せることは出来ないが、こうなってくると感想がほしい。
それも月の化身のような目の肥えた読者ではなく、世間一般の感性からずれていない同世代が好ましかった。
「わかりました。読ませてもらいます」
そう目の前で読み進められると、妙なくすぐったさを感じた。
才介は意味もなく席を外すことにした。一応トイレに行くと理由はつけた。
しばらくしてから、才介は中座したことを詫びた。
吉川はすでに読了したようで、ルーズリーフをそろえて待っていた。
「冒頭の耽美な描写は見事でしたが、話が進むにつれて不穏な空気が漂い、ついには事件が起きる。ここまでの流れは完璧です」
本当かよ、そう思いつつも内心ではガッツポーズを決める才介。この日のために毎日研鑽を積んできた甲斐があった。
まずは名作と称されるミステリーの序章を片っ端から模写した。
いつかおのれの血肉になることを信じて、脳が働かなくなっても手だけは動かし続けたのだ。
小説だけではなくドラマや映画にも目を通して、カメラワークや構成に関する基礎知識を手に入れた。
音響効果は再現出来ないため、地の文に緩急をつけることで、微妙な雰囲気の変化や臨場感の演出にも努めた。
そのほとんどが不眠不休の作業で、濃密な時間を過ごしたのだった。
学校ではいかにしてバレずに眠るかだけを考えていたが、ときどき体調を崩して保健室にも行った。そこに松岡の姿はなかった。
「つかみはオッケーです。ですが、ここからが大変ですよ」
親指と人差し指をくっつけてオッケーと微笑む吉川に、才介も愛想笑いを返した。
なんだか頭がくらくらする。うまく思考がまとまらない。
「はは、サンキュー」
「大丈夫ですか?」
彼女は唐突に身を乗り出してきた。
うん、なにがだよ。ぼそっと発声するのも面倒くさい。
すこし頭が痛かった。
「顔色が悪いですよ」
「ああ、そうか。あんまり寝てないからな」
ガタッと椅子を引いて立ち上がり、才介は壁に向かって倒立し始めた。
「まあ逆立ちしてれば顔に血液が集中するから、顔色もよくなるかもな」
「やめてください!」
「図書室ではお静かにだろ」
ふっと嘲笑するのも構わずに、吉川は才介の足を壁から引きはがした。
「なにを考えているんですか。ちょっとおかしいですよ」
おかしい。そんなことは才介自身が一番理解しているつもりだ。
それでも募る焦りは津波のように押し寄せて、理性とか自制心とか、そういった家屋をまるごと洗い流してしまうのだ。起きてしまった土砂崩れを止めることが出来ないように、この気持ちは止めてはならないと思った。
「そんなことはわかってる。けど、時間がねえんだよ。一日の長は瓜生にある。俺みたいな新参者にはこれしか方法はないんだ」
二本の脚で立ち上がると、貧血でその場にへたり込んでしまった。
吉川があわてて手を差し伸べるが、それを拒否する。
机に手をついて立ち上がると、
「俺には好きな人がいるんだ。その人のために小説を書いている。こんなところでつまずくわけにはいかねーんだよ」
吉川はぐっと唇を噛んだが、静かに口元を動かした。
「その人には告白したんですか?」
「え」
またもや視界がくらりと揺れた。
全身の体温が下がって、嫌な汗が噴き出る。
椅子に座るのもおっくうで、そのまま床に座り込んだ。
「私は、先輩の伴走者です。瓜生先輩にも勝ってほしい」
目線の高さを同じにして、彼女は優しく言った。
「私じゃ、ダメですか?」
綺麗に束ねられた二つの太い髪が、半月に見えてきた。
ダメだと一蹴するつもりで口を開くと、好きだと声が出た。
違う。それは月の化身に対する言葉だ。
「いや、違うんだ。えっと……」
なんだか、悪寒がしてきた。
寒いと小さく言うと、彼女は才介の背中に腕を回して温めてくれた。
吐き気がした。
もう帰ると言うと、彼女は肩を貸して歩かせてくれた。
だが、献身的に支えてくれる吉川の姿など、才介の目には映っていなかった。
もうろうとする意識の中で彼は、小説を書いて死ねるなら本望だと思っていた。
脳みそがぐわんぐわんと揺れる感覚がして、死ぬのではないかと感じて、そう思ったのだ。
間違えて告白したことなどは、とっくに忘れていた。




