35.経営戦略の結末
七月も下旬に差し掛かると、より一層セミの鳴き声はやかましくなった。街路樹の立ち並ぶ通学路を歩いただけでも、絶え間なく音の洪水に飲まれることになる。そうやって憂鬱な気持ちで登校すると、肌の浅黒く焼けたクラスメイトが教室にいてセミに負けじと騒いでいる。
それがいつもの光景だったが、この日はすこしだけ違った。
「おお、渡辺じゃねーか。店の方は大丈夫か?」
渡辺の身体はまだ日焼けをしていなかった。久しぶりの登校であるから仕方がない。
「うんー。おかげさまでー」
あははーと無邪気に目元を緩ませて笑う。髪の毛が伸びていたが、女子にしては十分に短かった。
「スタンプカード作戦はうまくいったよー」
それは鈴木が内々に準備していたプランだった。彼の先を読む力は計り知れない。
その鈴木が太鼓判を押したうきうき弁当との業務提携はどうなっただろうか。どちらの店舗もチェーン展開をしていないから融通は効きそうだ。
そう思って訊いてみたが、
「やんわりと断られたねー」
「そうなのか?」
「将来的には検討してくれるみたいだけどー、今は資本提携も吸収合併もリスクが大きいからねー。お互いの事業がうまくいってからにするそうだよー」
「弁当の販売はどうなった? 俺は渡辺の弁当は商品になると思うぞ」
「調理師免許を取得してからだってー」
「そうか」
「だけどー、簡単な軽食だったら販売してもいいって言われたよー。だから最近はー、ナポリタンやサンドイッチを練習してるんだー」
渡辺は引き出しからおしゃれなバスケットを取り出す。中には色とりどりのサンドイッチが並んでいた。
「カフェテリア空間も新設してもらったからー、若い人も過ごしやすいお店になったと思うよー」
米寿を店舗拡大する。
春頃にそう息巻いていた彼女だが、もうその目標を達成してしまったようだ。
「軽食以外にもー、コーヒーや甘味も用意するから楽しみにしててねー」
「おう、もちろんだ」
大きく頷いてから、才介は口を開いた。
「ところで宅配サービスはどうなった?」
「人手不足だからそれも保留だねー。だけどー、才介くんの提案してくれたブランケットやかき氷の案は採用だってー」
「良かったぜ」
才介はほっとひと息吐く。なんだか嬉しかった。
「これは鈴木くんの助言なんだけどねー」
そよ風がカーテンを揺らし、セミの大合唱が運ばれてきた。
「地域の学生を対象に、夏休み限定で職場体験を開くことにしたんだー。一時的だけど人手不足が解消されるだろうってさー」
夏休みは絶好の書き入れどきになる。いいアイデアだと才介も感じた。
米寿は廃棄食材が多いと嘆いていたから、それをまかないとして出せば、協力してくれる学生も増えるだろう。それに小学生だって水汲みは出来るし、相手も自由研究のテーマになるから、存外にウィンウィンの関係は築けるかもしれない。料理の専門学校生にとっては現場研修にもなるから願ってもない申し出だろう。
夏休みを目前に心配事がひとつ減ったような気がして、この日は執筆がはかどった。
ここまでの充足感を味わったのはサッカーを引退してから初めてのことだ。そう思うと、月の化身に対する恋慕の情はますますつのっていった。




