32.烏龍飯店の実力
傘を叩きつける雨音がうるさすぎて会話の内容がほとんど頭に入ってこない。
頭上には灰色の分厚い雲が垂れ込めていて、一寸先は視界が霧に包まれたように真っ白だった。
靴底の薄いスニーカーは水を吸って、ぐちょぐちょと気持ち悪い感触を足裏に伝えている。湿度のせいなのか、背中にも汗がにじんでしまい非常に不愉快だった。
「うはは。中華料理なんて久しぶりだ」
鈴木はビニール傘を真横に傾けた。そこを大型自動車が無遠慮に通り過ぎる。盛大に雨水をまき散らして去っていくと、案の定ズボンがびしょ濡れになっていた。
「最悪だぜ、あのくそ野郎!」
才介は忌々しく舌打ちをくれてやった。
さらに激しさを増していく雨脚は滝のようになっていた。排水溝は冠水してしまい、水が溢れ出ている。遠くで雷鳴がとどろいた。
信号にかかって足を止めると、個人経営のラーメン屋が、今月限りで店を畳むとの貼り紙をしていた。ふと渡辺の定食屋がダブって見えた。才介は頭を振って思考を消去する。いやに現実味を帯びているような気がしてならなかった。
噂の中華料理屋『烏龍飯店』に到着したのはもう少し濡れてからのことだった。
才介はエントランスでシャツの裾を絞る。大量の水が流れ出た。
順番待ちの用紙に名前を書いてからサンプル食品を眺める。唾液の分泌が促進された。香りさえ放ちそうな精巧な模造品がガラスを隔てた先に陳列されているのだ。音を鳴らして唾を飲み込む。
していると、くしゅん、と声がした。そこには濡れネズミになって震えている老夫婦の姿があった。子どもや高齢者にとってここの空調は厳しかった。体温を奪われた才介も同じ意見だ。せめてブランケットがあればいいのにとごうごうと唸るエアーコンダクターを睨み付けた。
「ここに来て改めて、渡辺の定食屋にはつぶれてほしくないなって思った」
グラスに入った氷水を飲み下すと、常温に戻りつつあった才介の身体は一気に冷やされた。
「客への配慮がまるで感じられない」
「うはは。まあ、そうかもしれないな」
お手洗いから出てきた子どもに人相の悪い店員がぶつかった。ラーメンと炒飯を載せたトレーが危なく揺れる。その店員は顔中を口にして怒鳴りつけた。
「どこに目ェ付けて歩いていやがるんだ。このクソガキ!」
かわいそうな子どもはフローリングにしゃがみ込んで泣き出した。店員はまだ悪態をついている。
そんなことをしていたら料理が冷めてしまうだろ。早く運べよ。才介は少しずれたところで憤った。
「うはは。いい方法があるぜ」
鈴木はスマートフォンを取り出すと、カメラ機能でその2人を撮影した。人相の悪い店員がこちらに気が付いたのか罵声を浴びせてくる。
「勝手に撮ってるんじゃねえよ!」
「うはは。なかなかの景観だったからインスタに載せようと思って」
「肖像権の侵害じゃねえか!」
「うはは。俺は店内のインテリアを撮影しただけだ。そこに映り込んできたのはあなた方だろ」
「このクソガキ!」
「クソガキはどっちだテメー。うちの愚息がよそ様に迷惑かけるようなことをしたか?」
子どもの父親だろうか。タンクトップから丸太のような太い腕をのぞかせて男は言った。
「ぶつかったのはテメーだろうが。まずはテメーからあやまるのが筋ってもんだろう」
いいザマだな。才介はそう鼻で笑った。
さっさと料理を運ばないからそうなるのだと、まったく見当違いなことを思った。
「この麻婆豆腐、辛くて食べられないわ」
「水をもらおう、ばあさん」
先程の老夫婦が唇を腫らしてひいひい喘いでいる。彼らは呼び鈴を押した。店員がかけてくる。
「すいません。水をください」
「悪いな。ここはセルフサービスなんだよ。自分で取りに行きな」
またしても店員は不遜な態度をとっていた。
さすがに腹が立ってくる。
「おい鈴木。こんな店さっさと出るぞ」
「うはは。マジで笑えないな」
才介の注文した担々麺とヒレカツ丼のセット。鈴木の注文した天津飯と餃子が運ばれてきた。
学生の財布では身を切る出費だが、はやる好奇心は抑えられなかった。
担々麺からはゴマ味噌の風味が漂ってきた。赤いスープに溶かして飲んでみる。
身体の芯を突き抜ける爽快感が、一瞬で駆け巡った。
ピリッとした辛みのあるスープが濃厚なゴマ味噌と出会うことによって、その味わい深さをより一層引き出している。かと言ってくどすぎず、苦もなく飲み干せるように精練されていた。麺は細麺でさっぱりと食べることが出来た。
ヒレカツ丼を食べてみる。豚肉はやわらかいし、衣はしっとりしていて食べやすい。米にまでタレが染み込んでいるから、最後まで飽きずに食することが出来た。
「悔しいけど、味だけは一流だったな」
「うはは。違いねえ……」




