31.米寿の強み
飲食店街が立ち並ぶ一角に定食屋『米寿』はあった。日没にもなると下校途中の学生や会社帰りのサラリーマンが多く見られる。週末は家族連れも多く、この時間帯は客層がまばらになるのだ。
丁寧に磨かれたガラス扉を開けると、カウベルが小気味良い音を鳴らした。厨房で作業をしていた中年女性がエプロンを結びながら「いらっしゃい」と声をかけてくる。彼女は下腹部が突き出たりんご体型で、頭には唐草模様のバンダナを巻いている。才介も「こんにちは」と会釈を返した。
「才介くんだったかしら。久しぶりねえ」
渡辺真理子の母親はしわくちゃな笑顔で対応する。以前よりもしわが増えたなと才介は思った。
「ご無沙汰しております」
そう券売機に硬貨を投入する。さばの味噌煮定食を選んで半券を渡した。
「しばらく真理子さんの姿を見ませんが、何かありましたか?」
才介が単刀直入に質問すると、渡辺の母親は困ったように顔に手を添えた。近くで見ると肌荒れもひどい。家計が圧迫されてやつれているようだった。
「お店が忙しいから手伝ってもらっているのよ」
「繁盛していますか? 近くに中華料理屋がオープンしたそうですが」
彼女はふうと嘆息した。その瞬間だけ、一気に老け込んだように見えた。
「真理子はね、うちの店を継ぐつもりで手伝ってくれているのよ。だからあの子には黙っていてほしいんだけど」意味深長に声のトーンを落とすと、渡辺の母親はぼそぼそと言った。「正直もう火の車だわ。古参の大衆食堂ではこれが限界なのかもしれないわね」
手入れの行き届いた清潔な店内を見渡す。その瞳には諦念がにじんでいた。新規の客はみんな中華料理屋に足を運ぶため、収入は常連客の食事代だけである。薄利多売をなりわいとする『米寿』では純利益はすずめの涙程度しか得られない。集客力を失ったのは致命的であった。
才介は適当なテーブルに腰を下ろす。客がいないため、席は選び放題だ。
厨房からは軽快な包丁さばきの音が聞こえてきた。
「これは一過性の現象だと思いますよ。目新しい店舗にひかれて客が流れているだけです」
慰めではなく、心からそう思った。『米寿』にはそれだけの魅力があるはずだ。
「それなら嬉しいけどね。お店を存続するには維持費がいるでしょ。廃棄する食品だって増えちゃって困るわ」
「そうですよね」
首肯するとくしゃみが出た。ここは空調が効きすぎていて寒い。
「さばの味噌煮定食お待たせしましたー!」
渡辺ののんびりした声が食器受け渡し口から聞こえてきた。彼女は黒いバンダナを頭に巻いて微笑を浮かべている。ようとあいさつをすると、はにかんだような表情が返ってきた。なんだか気まずくて目を逸らしてしまう。
お盆に載っているのは、白ご飯、わかめと豆腐の味噌汁、さばの味噌煮、キャベツの千切り、漬け物、といたってシンプルなメニューだった。いかにも老舗といった趣で新鮮味に欠けている。近年では食文化も多様化の一途をたどっているためこのままでは廃れてしまうような気がした。生存競争を勝ち残るためには柔軟な方向変換も必要かもしれない。
まずは野菜から食べるというサッカー部時代の癖で、キャベツの千切りを味わってみる。みずみずしく歯ごたえのある食感が前菜にふさわしい。食欲増進にうってつけだ。
そう舌鼓を打って水を飲む。
今度は箸で魚の身をほぐして、味噌とよく絡ませてからご飯と一緒に掻き込んだ。
うまい!
味噌の濃厚な風味が口いっぱいに広がって、さばとの相性も抜群に良いのだ。それだけじゃなく白米もおいしい。主役の存在を引き立てつつも、自分自身の魅力を最大限に表現していた。
わかめと豆腐の味噌汁をすする。身体が温まった。家庭的で素朴な味わいを残しつつも、才介好みの濃い味噌汁である。
そして時折かじる漬け物が最高にうまい。口の中を上手にリセットしてくれる。
「どうかしら? ご飯は大盛り、お味噌汁は濃い目にしてみたの。お味噌汁の具は、わかめと豆腐が好きだったわよね」
「はい。覚えていらっしゃったのですか?」
「あらやだ。来店されたお客さんの嗜好くらいは覚えているわよ」
すごいな。ここまでの配慮はチェーン店では出来ない。個人経営ならではの強みだと才介は思った。




