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月が綺麗ですね  作者: オリンポス
第3章 渡辺真理子の経営戦略
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29.不登校の理由

 この日はじめっとした蒸し暑い気候だった。氷の入ったグラスが結露するように才介の首筋を汗が伝う。高等学校の衣替えは終わり、夏制服に完全移行していた。形式上はすがすがしい気分になる。しかし、湿気がべたべたと肌にまとわりついて、その度に不快の溜め息をもらす生徒が多いのも事実だ。


 才介は灰色のアスファルトを見つめながら歩く。この暑さにやられて、もしくは高い湿度に呼応して、この炭化水素の化合物が融解してしまったら面白いと妄想してみる。きっとパニックになるだろう。道路が土と、粘性が高い灼熱の液体でコーティングされるのだ。車は渋滞、歩行者は行動不能になる。そこまでの異常事態だ。鉄道会社も運転見合わせ、航空機も離着陸不能のため業務停止。

 海面の水位が上昇して日本が沈没するSF巨編があったが、アスファルトが溶けて日本が沈没するというのも、現代では風刺が効いて良いかもしれない。相次ぐ土地開発に警鐘を鳴らすのだ。


 早く文章に起こして月の化身に見せつけてやりたいな。才介の身体がうずいた。彼女にはいくら自作の小説を書いて読ませても、絶賛どころか批判しかされないのだ。叶うことなら今すぐにでもその汚名を返上したかった。


「うはは。早くも夏バテか?」

 遠くから男子生徒の声がする。聞き覚えのある声だ。

 ブレーキの軋む甲高い音が嫌悪感に拍車をかける。無視しようと努めたが、どんっと背中を押されると、汗とともに噴き出す感情は抑えられなかった。


「そんなんじゃねーよ」 

 襟首をつかんで揺さぶってやろうと思ったが、めまいが生じてやめた。

 雲の切れ間からのぞく日差しは強くないが、どんよりとした天気のせいで頭が痛い。


「うはは。そいつは悪かったな」

 オラウータンの表情をしてから、鈴木は人差し指で眼鏡を押し上げる。

「で、渡辺は大丈夫なのか? ここのところ姿を見かけないが……」

 そうなのだ。才介と松岡が『歌ってみた』のオーディション会場に赴いた翌週から、渡辺真理子は学校を休んでいる。学校では病欠扱いをされているが、風邪にしては長引きすぎだし、持病があったとも聞いていない。きっと何か深刻な理由があったのだ。


「連絡はしているが、要領を得ない返事しか返ってこねーよ」

 才介は後頭部を掻いた。彼女の作った弁当の味がよみがえる。

 渡辺は定食屋の店舗拡大を標榜していた。もしかするとそれに関係があるかもしれない。

 たとえば、赤字経営が続いているとか。


「学業不振ってことはないか? 赤点だらけで留年が決定し、ショックで寝込んでいるとか」

 それはお前だろ。という発言を、舌を噛んで止める。

 鈴木は一見するとバカだが暗記科目は強い。博覧強記というのだろうか、教科書類だけでなく、授業の内容に至るまで片言隻句さえも忘れてはいないのだ。計算問題は苦手でも、地歴公民のテストでは必ず上位に食い込んでいる。

 プロ棋士は記憶力がすごいらしいが、それなら鈴木も人後に落ちない才覚を有していた。


「それはないだろ。渡辺は料理の専門学校に進むつもりらしいが、先生には私大の受験も視野に入れるように促されているらしいし」

 渡辺はおっとりしているが意外と要領は良いのだ。得意教科がない代わりに、苦手科目も少ないらしい。赤点を取る可能性は才介や松岡の方がむしろ高いくらいだった。


「それならなんで来ないんだよ」

「そういえばこの前、近くに中華料理店がオープンしてからというもの、店の経営が大変になってきたって話してたな」

 プロの厨房に立つ覚悟が、渡辺の両目に宿っていたことを思い出す。あれはこのことを示唆していたのだ。ここからは結果論でしかないけど、どうして気付いてあげられなかったんだと呵責の念にかられてしまう。


「うはは。それは関係ない。偶然の一致だぜ」

 ありがたいことに鈴木は一笑に付してくれた。良かった。客観的に考えれば間違っていたのか。才介はそうざわつく呼吸を正常に戻していく。

「だって定食屋と中華料理屋だったらニーズが違うし、客の取り合いも起こりにくいだろうからな」

「それが、そうとも言い切れない」

 神妙に言うしかない情報だった。歩行者信号が点滅を始めたため、才介達は足を止める。

 鈴木が口を開く前に、才介は唇を舐めて、

「その中華料理店がネットでも話題になっていて、これからテレビの取材も来るそうなんだ。客足が遠のいているのはそのせいかもしれない」

 盛大な排気音をまき散らして自動車が目の前を通過していく。生暖かい風が歩行者の髪を揺らした。


「あくまでも仮定の範囲内だが合理的な説明ではあるな」

 自転車を支えながら鈴木は考える素振りを見せた。

 やはり気のせいだろうか。それでもつじつまが合ってしまうのは気持ちが悪い。無視は出来ない。ならばせめて自分達が納得するだけの説明がほしい。

「よし」鈴木が歯ぐきをむき出しにすると、歩行者信号は青を示した。「放課後になったら渡辺の定食屋に行ってみようぜ。本人に直接確認すれば済む話だろ」

「そうだな。やりたいことがあるけど仕方ねえ」


 喧噪の塊が集団になって横断歩道を渡っていく。大した悩みもなさそうな能天気な群れが、意味もなく才介の鼻についた。こっちはこんなにもがき苦しんでいるのに、よくそんな間抜け面を公衆の面前にさらせるなと理不尽な怒りがふつふつと沸き上がる。


「ああ、なんだかイライラするな」

 隣を向くと、鈴木は駐輪場に走り去るところだった。汗をかいたのか、白いシャツが背中に張り付いている。風を受けて楽しそうにペダルを漕ぐ姿はどこか陽気に見える。才介は舌打ちをかましてやった。

「イライラするな……」

 もう一度意識して声に出してみると、不思議と気持ちが整理されていく。怒りへと転化しやすいこの気持ちは焦りだった。


 当たり前だったはずの高校生活が終わってしまうのが怖いのだ。永遠にも感じられた教育機関との付き合いもこれでおさらばだ。

 才介は少しずつでも日常が侵食されている気がした。非日常が多すぎる。松岡はオーディションを受けるし、渡辺は家庭の都合で学校を休んだと予想されるし、鈴木はプロ棋士を目指している。それぞれが未来に向かってレールを敷いている。自堕落的だったはずの日常は崩壊したのだ。

 これからは当たり前の高校生活が、もっと当たり前じゃなくなっていく。そして卒業を迎える頃には、みんなはバラバラに離散していくのだ。

 そのときまでに俺は、何者かになれているだろうか。才介は雲の多い空を見上げてそう思った。

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