23.松岡千歳の実力
「才介……」
長らく酸素を渇望していたかのごとく大きく息を吸い込み、松岡は怒鳴った。
「プレッシャーになるようなことしないでよ!」
「悪いな。あの不遜な振る舞いに嫌気が差して、つい」
「ついじゃないでしょ。全くもう……」
「エントリナンバー27番、松岡さん。ご用意が整いましたら収録室までお越しください」
女性スタッフが無機質な声で呼びかける。
「すぐ行きます」
そうレコーディングスタジオに駆けていく松岡。
大声を出した副作用だろうか、その動作に迷いは感じられない。
「頑張れよ」
小さく呟くと、孤独な廊下に才介の声だけが残った。
課題曲のメロディーが流れる頃には、才介の胸の鼓動にも拍車がかかっていた。しょうゆ打者に啖呵を切ってしまったがこれは失策だった。そう奥歯を噛みしめる。路上ライブを見に行ったときに松岡は言っていたではないか。しょうゆ打者はSNSで過激な発言をしている注目度ナンバーワンの歌い手だと。今回のいざこざがそれに反映されないとは限らないのだ。ネットへの書き込みや誹謗中傷は最も考慮すべき事項のはずだった。
それに『歌ってみた』の投票は一般人が大半を占める。ということは、絶対評価ではなく相対評価になりやすい。風評被害は避けられないのだ。
圧倒的な窮地。絶対的な逆境。
これを跳ね返すのは才介ではない。松岡なのだ。
彼女の人生がかかった大一番にもかかわらず、余計な心配を与えてしまった。
「頼む」
才介は拝むように両手を組んだ。松岡のかわいらしい声が聞こえてくる。
いつも通りの、否、いつも以上の歌唱力だった。
松岡は課題曲にバラードを選択していたが、それは正解だった。リズミカルでありながらも暗い部分はダークに、テンポの良いサビは陽気に明るく歌い分けている。万華鏡のように表情をコロコロ変えて、編み物をする器用さで歌の世界を紡いでいるのだ。
これはドラマだ。そう思う。一曲一曲に物語が凝縮されていた。
松岡の繊細さがここにきて活かされている。重圧に押しつぶされない胆力も並ではない。
「いいぞ、松岡ー!」
才介は思わず快哉を叫んだ。
二曲目が始まる。ファンタジー色の強いファンシーな選曲だった。
出だしは平坦で起伏に乏しい。英語の歌詞が多用されているため、知らない語彙もそれなりにある。
しかし、それが見事にハマっていた。
わからないからこそ、空想の世界にいるような錯覚を覚えるのだ。
理解出来ずとも不快に感じない。松岡にはそうさせるだけの技量があった。
大人っぽくシックに歌いこなすところと、女子高生らしく元気に歌うところのメリハリが耳に心地よい。その天衣無縫な歌唱法は聞き手との間に壁を作らず、自然と身を委ねたくなるような安心感があった。
楽しそうな声音と、かわいらしい歌声は聞けば聞くほど好きになる。
よくミュージシャンの生ライブで涙を流すファンがいるが、その理由もすこしはわかるような気がした。
才介は目頭が熱くなるのを感じて、昂った感情を鎮めるために唾を飲み込んだ。
う、と嗚咽が漏れる。
歌を聴いてここまで感動したのは初めてだった。
そうこうしていると、松岡は憑き物が落ちたような表情で収録室から出てきた。
「おう松岡。最高だったぜ」
長い髪を手櫛でとかしながらやって来る松岡に、才介は声をかける。今回の成功がよっぽど嬉しかったのか、松岡はその瞳を輝かせていた。
「うん! じゃあ帰ろっか」
「おう」
こうして、濃密だった『歌ってみた』のオーディションは終わりを告げた。あとは祈ることしか出来ない。外の植え込みは太陽の恵みを受けて、きらきらと祝福の光をこぼしているようだった。




