22.しょうゆ打者の実力
優しい。才介が抱いた感想はそれだった。
スーパーハイトーンや巨大な声量は鳴りを潜め、しっとりとしたバラード曲が完成されていたのだ。
母親が我が子を愛撫するような、慈愛に満ちた歌声。先程と同一人物だとは思えない。
「すげえ。こんな歌い方も出来るのかよ」
対する二、三曲目の爆弾ボイスは、バラード曲とのギャップが相乗効果を生み、より強烈な世界観を醸成していた。
よく聴くと、見た目のインパクトに反した丁寧な歌い方で、ディテールに至るまで配慮されていることがわかった。基本に忠実な歌唱法である。それは日々の鍛練の成果なのだろう。
音楽が終わっても、しばらくの時間は彼のボイスが頭から離れなかった。それほどまでに印象的だったのだ。
松岡が練習用のブースから出てきた。緊張の色はまだ残っていた。
「大丈夫だ。いつも通りやろうぜ」
勇気づけるはずの才介の声も震えていた。
しょうゆ打者。思わぬ強敵になりそうだ。
「おい貴様。俺様の歌声に陶酔したか?」
草履を擦るようにしてしょうゆ打者が戻ってきた。どこか満足そうな面持ちである。
「ああ、大言壮語するだけのことはあるな」
「俺様にとって音楽は人生そのものだ。青春時代を捧げてまで身に付けた技巧は伊達じゃないと自負している」
青春は捧げられても髪色だけは譲れなかったんだな。ツートンヘアーを揺らして豪語するしょうゆ打者に才介は冷たい視線を送る。
「こんなところまで足を運んでいるんだ。貴様も投票には参加するのだろう」
「当然だ」
「であれば、迷わず俺様に清き一票を投じるがいい。この世は弱肉強食。俺様こそが最強なのだからな」
「ふん、だからくだらねえって言われるんだよ」
才介は腕組みをして振り返る。そこには松岡がいた。
「優勝候補が目の前にいるだろうがよ。コイツを差し置いて選挙演説とは、ずいぶんと尊大だな」
しょうゆ打者はばつが悪そうに一瞬だけ目を伏せた。
だがすぐに哄笑する。カハハと、わざとらしいハイトーンで。
「そいつは楽しみだな。おい貴様、名は何と言う?」
びしっと人差し指で松岡を示すしょうゆ打者。
「あ、ども。松岡です」
松岡はおどおどと返事をした。脚を内股にして、身体全体を前傾させている。
「聞かぬ名だな。刹那の姉貴とは顔出しライブでよく会うが、貴様の顔は見た覚えもない」
「あの、はい、その通りです。私なんか無名なので、今日が初対面です」
「無名の優勝候補ってことか? そういうのも悪くねえな」
「優勝候補とは、この人が勝手に言い出しただけです。私は決してそのような者ではありません」
「カハハ。月曜日の一斉配信が楽しみだな」
萎縮してしまった松岡の声は小さすぎて、しょうゆ打者に届かない。
「俺様はこれから路上ライブを敢行してくるぜ。せいぜい頑張れよ」
「あ、ありがとうございます」
ありがとうじゃないだろ。才介はそう突っ込みを入れる。
しょうゆ打者は草履を擦るようにしてエレベータに乗ってしまった。
空気が、弛緩した。




