20.知名度ナンバーワン
待合室にはヘッドフォンで音を確かめる受験者や、談笑して気分を紛らわせる受験者が、ところ狭しと密集していた。冷房が効いているはずなのにだいぶ暑苦しい。
「やあやあ、そこの麗しい美少女。あっちのブースで僕とデュエットしないか」
透き通った女性ボイスが、狼狽する松岡を捉えた。
「僕はアルバイト山崎。ラジオパーソナリティをやっているよ」
「あ、どうも」松岡はぺこりと頭を下げる。
アルバイト山崎は男性で、短髪をジェルで固めていた。ワイシャツにスラックスを履いている。
彼は清潔な身なりをしていて、そこそこ男前ではある。それだけに女性ボイスなのが残念だった。
「男性なのに女の声が出せるなんて、刹那さんみたいですね」
刹那は女性でありながら、男の声も使い分けていた。
それは先の甲乙丙丁なるメイドも同じだが、想起するとしたら刹那に近い印象だ。
「僕なんかと刹那さんではまさしく雲泥の差だよ。僕には変声期が来なかったから女性ボイスが出せるだけさ。刹那さんの声は努力のたまものじゃないか」
そう謙遜するアルバイト山崎。ただのナンパなやつだと思ったが、ちゃんと他人を評価することも出来るらしい。才介は彼を見直した。
「どうだい? 刹那さんは人気ナンバーワンかもしれないけど、僕は知名度ナンバーワンだよ。オーディションの収録後に、動画で僕とデュエットしても損はないと思うけどな」
「いいえ、結構です」
即答だった。
「そんな無下にしないでよ。僕だったらラジオ番組でアジテーションを行うことも出来るよ」
「それなら刹那さんを宣伝してください。お願いします」
刹那は松岡の憧れだ。彼女は今回のオーディションで結果を残せなかったら引退するつもりらしい。
だからだろう、松岡の形相は必死そのものだった。
「交渉決裂だね。残念だよ、麗しき美少女」
「ごめんなさい。またの機会にお願いします」
松岡はきっぱりと拒否の姿勢を示した。この行動が吉と出るか凶と出るかはまだわからない。
「ああ、緊張してきた」
満員電車のような人口密度を誇っていた待合室には臙脂色の光が差し込んでいた。人はすっかりはけて閑散としている。山間に沈んでいく紅色の球体は、役目を終えたとばかりに舞台袖へと姿を隠しているが、松岡の出番はこれからだった。
「大丈夫。落ち着け」
アルバイト山崎はすでに収録を終えていた。彼はラジオ番組を持っているだけあって、緊張を感じさせない歌唱だった。それでも地力は及んでおらず、歌唱力だけならば松岡に軍配が上がるはずだ。
「いつも通りにやればいけるはずだ」
プレッシャーのかかる局面は幾度となく経験してきたはずなのに、いざというときに最適な言葉が出て来ない。結局は安直な慰めになってしまった。
「うん。ちょっと練習用のブース使ってくるね」
松岡は青ざめた表情で部屋を出た。その声はかすれている。
このフロアには声出し用のブーススタジオが用意されており、出番が近くなった受験者は頻繁に利用していた。入室する際はドアに『使用中』の札を掛けるのが決まりだ。室内は自動照明で、エアコンが完備されている。最新のカラオケ機器もあるため音程やリズムの確認も可能となっていた。
才介は邪魔にならないように廊下で祈ることしか出来なかった。他の受験者が何かを熱唱しているが、曲の巧拙はよくわからない。刹那やしょうゆ打者、甲乙丙丁のような、歌い方にタグが付いているとでも形容すべき特徴が感じられない。良くも悪くも押しなべて同じような楽曲ばかりだ。
していると、突然けたたましいシャウトが声出し用のブースから響いてきた。聞く者をぶっ叩くような衝撃波が才介の鼓膜を襲う。
これだ、と思う。しょうゆ打者の持ち味はこの声量だ。いちいち覗かずとも、そこに彼がいることが丸わかりだ。
だったら松岡の武器は、そう考えずにはいられない。
彼女には多彩な声色も、ネイティブな英語も、知名度や宣伝力も、ましてや声量ですら他を超越しているとは言いがたい。では一体どこで差をつけるつもりなのだろうか。
ガチャリ、とブースの防音扉が開いた。そこにはペットボトルを片手に持つ、奇抜な格好の男性がいた。
髪の毛は真ん中から右が赤色で、左が金色。服装はラフなデザインティーシャツにガウチョパンツ。足元は草履である。頭部さえまともならば和風男子という印象を受けただろうが、これでは変質者にしか見えない。




