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月が綺麗ですね  作者: オリンポス
第2章 松岡千歳のオーディション
18/87

18.甲乙丙丁の実力

 緊張で口が渇くのだろう。松岡はちびちびとペットボトルのお茶に口をつけていた。

 彼女は虚ろな目を走らせて、どこか遠くを眺めているようでもあったし、すぐ近くを見つめているようでもあった。どちらにせよその眼窩は空洞であり何事をも捉えてはいない。


 才介は気を遣って、オーディション会場に着くまでは沈黙していた。


 収録フロアにて受付を済ませると、松岡はハッとしたように動きを止めた。浮遊していた精神が回帰したかのごとく耳目を集中させている。

 音楽、だった。

 彼女を呼び戻したのは間違いなく、音楽だった。


 受験者の生歌が、孤独の深淵に沈み込んでいた松岡をすくい上げたのだ。


 それは、アニメソングだった。

 複数の声優によって歌唱が行われることで、ドラマCDの重厚さが演出されるクインテットである。

 オムニバス形式でキャラクターの一人ひとりが独唱していくのだが、その役割は多岐に渡っており、ソプラノ、アルト、テノール、バスに分担される。『歌ってみた』ではもっぱら合唱曲として抜擢される難曲で、とてもじゃないがソロで挑戦するのは無謀といえた。


 しかし、受験者はあえてそれを選んだのだ。

 そしてそのチョイスが正しかったことを、才介は思い知る。

 受験者は複数の声音を、当然に使い分けていた。ソプラノもアルトもテノールもバスも。男声も女声も。


「すげえ」

 その言葉は自然と漏れた。松岡も黙ってうなずいた。


 才介の頭の中にはアニメの世界が広がっていた。

 間奏の途中で入るアドリブにも独創性があり、多彩な声色、音程の正確さに加えて、遊び心も感じられた。

 刹那やしょうゆ打者に勝るとも劣らない実力である。


 またもや軽快な音楽が流れ始めたのを聞いて、才介は神経を尖らせる。もう一曲残っていた。


「え、これは……」

 才介は困惑した。次の選曲は洋楽だったからだ。

「いくら何でも奇をてらい過ぎだろ」

 そう思った。

 先程の単独五重唱で聴衆の心はばっちり掴んだはずだ。

 それなのにまだ冒険しようというのか。この受験者は。


「何を言ってるの才介。これこそ甲乙丙丁さんの真骨頂だよ」

「甲乙丙丁。これまた斬新なネーミングだな」


 全編が英語の歌詞。

 日常的に英会話をする者でなければ、アクセントや微妙な発音にさえ、四苦八苦するであろう。

 そこに音程やリズム、緩急や抑揚までもが要求されるのだから、並大抵の技術ではやけどをする。


 だが、受験者は違った。


 日本人なのか疑わしいほどに流暢な英語を用いて、ネイティブな発音で歌を紡いでいく。その抜群の安定感は、プロと比べてなんら遜色がなかった。


「コイツは声優なのか?」

 才介は興奮を押し殺して訊いた。

 アマチュアのオーディションのはずだが、予想以上の仕上がりである。


「それはわからないよ。甲乙丙丁さんは彗星の如く現れた新人だから、まだ情報が少ないの」

 新人か。才介は腕組みをして唸った。小説書きとしては、俺も新人なんだよな。

 ふと最年少芥川賞作家のことが気になった。その人は新人なのだろうか、と。


 もしもそうだとしたら、俺も芥川賞作家になれるんじゃないだろうか。そうほくそ笑む。

 この新人の曲を聴いていると何者かになれる予感がするのだ。可能性を信じたくなる。

 まずは公募に出すところから始めよう。俺が大物になったら月の化身も驚いてくれるはずだ。先生、と呼ばれるかもしれない。夢の印税生活開幕だ。


 才介がそう思ったのは、実は名誉欲のためだけではなかった。彼女の笑う顔が見たいという理由も多分に占めていた。ただそれだけで、あの孤独な作業にも立ち向かえる気がしたのだ。サッカーでは挫折を経験したが、それは誰からも必要とされていないことに気付いてしまったからだ。自分が弱いことはよく知っている。だから、応援してくれる人がいるうちは頑張りたいのだ。


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