16.刹那の過去
「息子なら武道で健全な精神を、娘ならピアノを習得させてたおやかな女性にするつもりだったんだけどね」
真剣に相づちを打つ松岡。
才介もなんとなく興味をそそられて、聞き耳を立てた。
「だけど私には音感がなくてさ。どれだけドレミの伴奏を聞いても、音程を合わせることすら出来なかったんだ。何回ピアノの先生に怒られたかわからないし、気が付いたらピアノ教室をサボることばかり考えてた」
「え、そうなんですか?」
松岡の長い髪が、才介の指に触れた。
閉所であるため、リアクションを取ると身体同士がぶつかってしまうのだ。
「うん。でもピアノをやめてからは充実していたわよ。一生懸命ボイトレに励んで、動画投稿サイトに自分の歌声だってアップしてたしね」
「ネットの評価はどうだったんですか?」
歌ってみたの人気ナンバーワン歌手に、松岡は臆することなく訊いた。
それだけ好奇心が上回ったのか、親近感が湧いたのだろう。
「幼少期はまるでダメだったわ」
エレベータ特有の浮遊感が才介の身体を包んだ。
重い鉄のカゴがようやく動き出したのだ。
「音程がずれている。リズム音痴。恥さらし。そんな罵詈雑言が、コメント欄を埋め尽くしたのよ」
「ひどい」
松岡は口元を手で覆った。その声は少し震えている。
「インターネット社会の弊害だよね。お互いに匿名だし、顔も見えないから、平気で人の心を傷つけられるのよ」
しばらくの間、沈黙が支配した。
エレベータの駆動音が、時の流れを静かに告げている。
「今でも私は自分の歌に自信がないわ」
「そんなことはないですよ」松岡は必死に訴える。「刹那さんは私の憧れです。人気だってトップじゃないですか」
「それは私だけの力じゃないと思うわ。みんながコラボ動画を撮らせてくれるから、知名度を上げることが出来たのよ」
「その謙虚な姿勢も、人気の一翼を担っているはずですよ」
「ありがとうね、松岡さん。でも、私」
無機質な扉が開くと、会社員風の男達が勢ぞろいしていた。
邪魔にならないように外に出ると、路傍に植えてある雑草が優しく揺れていた。
「あのね、松岡さん」
刹那は駅のある方角へと進みながら、意を決したように言った。
「今回のオーディションで結果が出せなかったら引退しようと思うんだ」
「えっ?」
松岡は絶句した。
憧れの存在がいきなり引退を宣言したのだから仕方がない。
「私みたいな音痴を応援してくれて、本当に嬉しいんだけどね」
「そんなことないですよ」
言下に否定するが刹那は止まらない。
「自分の実力が人気に追いついていないっていうかさ。毎日が不安なんだよね」
人気歌手はその悩みを打ち明けた。
「過度な期待に押しつぶされそうで辛いんだよ。もう音楽が楽しくないのよ」
それは聞くに堪えない悲痛な叫びだった。
「そんな……」
「その気持ちはよくわかるぜ。俺も同じ理由でサッカーをやめたからな。だけど……」
才介は中学時代、サッカー部のエースとしてその名を馳せた。
決して良いことばかりではなかったが、引退してから、その充実した日々を思い知ったのだった。
「きっと後悔するぜ、風評ばかり気にしていたらよ。好きなことから逃げるなよ」
サッカーは団体競技。歌手は人気商売。どちらも対人関係は肝要だが、それよりも大事なことがきっとあるはずだ。
「あら、嬉しいわね。引き止めてくれるのかしら」
茶化すようにして刹那は言ったが、才介は揺るがなかった。
「当たり前だ。お前は松岡の憧れなんだ。それだけでも続けていく意義がある」
「ちょっと才介。恥ずかしいこと言わないでよ」
「あらあら、青春ね」
「ちょっと刹那さん。それは誤解です」
侃々諤々と意見を戦わせていくうちに駅に到着していた。
関東の駅はどこも規模が大きく、才介は何度見ても圧倒されてしまう。
「あら、着いたみたいね」刹那はポケットからサングラスを取り出して装着した。「それじゃあ松岡さん。レコーディング頑張ってね」
どうやら変装をしているようだった。有名人も楽じゃない。
刹那はマスクをつけて駅の雑踏に吸い込まれていった。それを見送ってから松岡は口を開いた。
「ここの駅はね。路上ライブが認められているから、そこここで演奏が聴けるんだよ」
寂しさを埋めるためか、松岡は努めて明るい声を出した。
刹那は引退を思いとどまってくれただろうか。それは才介の胸にも引っかかっている。
しかしそれを話題にするのは適切ではない気がした。




