15.刹那の実力
ピアノの前奏で導入部は幕を開けた。
イントロからいきなりサビに入るが、刹那は落ち着いていて、妖艶な女性ボイスで歌い上げていく。
「うまいな」
才介は唾を飲み込んだ。
じっとりとした熱情的なサビ。クレバーな主旋律。
その抑揚はきちんと配慮されており、聞く者を魅了していた。
「ここからだよ」
松岡の表情が険しくなった。
別れることになってしまったカップルが、互いに言葉を投げかける歌詞が、メロディとともに流れていく。
それはさすがの貫禄だった。
想像せずとも情景が浮かんでくる。まるでその現場を目撃してしまったかのような背徳感が、才介の胸をしめつけた。
なんて切ないんだろう。なんていう表現力だろう。
刹那の曲が終わったことにも気付かぬまま、才介は放心したように立ち尽くしていた。
「あら、もしかして聞いてくれたのかしら?」
汗をかいてしまったのだろう。刹那はワイシャツの胸元を大胆に開けていた。
スーツの上着を肩に引っ掛けていて、手で顔の周辺を扇いでいる。
「感動しました。私なんかが努力しても、きっとあんな風にはならないと思います」
松岡は目元をにじませて、照れたように拍手を送った。
「何種類もの声音を使い分ける歌い手さんはすくなくないですが、刹那さんほどのクオリティを出せる人は絶対いないですよ。正直うらやましいです」
「あら、褒め言葉は素直に受け取るけど」
刹那の声は少年のようだが才介は知ってしまった。この人は色気のある女性ボイスも使えるということを。普段から少年の声で話すことによって、地声に近い発声を可能にしていただけなのだろう。松岡が苦労人と称した理由もこれなら得心がいく。
「私よりも松岡さんの方が才能があるように見えるけどな」
その言葉は天気の話題を俎上に載せるがごとく、さりげなく発せられた。
「ああ、俺も松岡には才能があると思う」
だから斜に構えた態度の才介ですら、素直にそう答えてしまった。
「え、才能があるなんて、そんな」
松岡の訥々としたしゃべり方は、月の化身のようだった。
才介はなぜか淡い彼女のことが忘れられない。時間を重ねるごとに彼女の存在は大きくなるばかりだ。
「あら、化粧室で松岡さんの曲を聞いたけど、本当に上手だったわよ」
刹那はケータイ電話をかざして見せた。
「私なんて、刹那さんの、足元にも及びません」
「ううん、そんなことないわよ。ちょっと外に出よっか」
彼女は迷いのない足取りでエレベータの下降ボタンを押しに行く。
招待状の確認をしているスタッフが、こちらに深々とお辞儀をしてきた。
エレベータの中は多様なデオドラントが混ざり合い、控えめに表現しても不愉快だった。乗客はいなくても臭いはすぐになくならない。
「私の家庭はずいぶん昔気質な田舎町でさ」
刹那は独り言のように呟き始めた。