愛を教えて
父親が生命システム科学の博士号を有していた、という事実は、一般的な娘にはどうあれ、イシギにしてみれば単なる不幸でしかなかった。
「イシギさま、ご用命をお達しください」
無表情でぼそぼそ告げる男のようなものを前に、イシギは荷解きの手を休めて頭を抱えた。辺りには中途に開いた荷箱がいくつも散乱している。とっ散らかった手狭な部屋にいるのは、イシギと、この、男のようなもの、の二人だけだった。白を基調とした飾り気のない部屋の内装は、必要最低限の家具しか用意されていないことも相まって、生活感というものがほとんど感じられない。
だがここはイシギの家なのだ。
ただし二日前までは、彼女の父、カノーのものだった。
カノーが事故に巻き込まれたのが母星換算で五年前。出先の惑星への航路の途中で、亜空間トンネルの中に吸い込まれた……らしい。亜空間に吸い込まれて五年戻ってこなかった者は鬼籍に入る。カノーもその習いの通りになって、イシギはつい先日、彼の財産を相続することになった。母親はずっと昔に亡くなっている。イシギは一人っ子で、親類縁者もいない。全ては彼女自身に相続の権利があった。そして仕事のため縁薄かった父親が娘のために遺してくれたそれこれが、つまり、広くはないが配慮の行き届いた快適な一戸建ての住居と、彼女の今後の学費を工面できるだけの預金と、この目の前に突っ立っている父親お手製のアンドロイドというわけだった。
(冗談じゃないよ)
内心でぼやく。イシギは目の前のアンドロイドをじっと見つめた。
このアンドロイド、見た目は完全な成人男子である。体の線に沿った紫外線遮蔽仕様のスーツと、最近この惑星の中流で流行っているとかいうデザインパンツを身に付けている。いったい誰が用意立てたのだかは知らないが、適度にラフな格好になっている。きっとイマドキの二十代男性ならばこういう格好をしているであろうという姿だ。素体は地球の東洋系か、あるいはアズュラ系星の戦士をモチーフにしたのかもしれない。肌は少し日に焼けた黄味のある褐色で、髪も瞳孔も黒い。すらりとした手足には、無駄なく肉が付いている。背は百八十センチあるかないか。恐らく成人男子を模したアンドロイドとしては標準的な体格なのだろうが、ちょっぴり小柄なイシギにとっては、縦横の寸法が自分よりでかい輩が新居にいるというのは、それだけで十分いやな気分になるものだった。
国際航行法に照らし合わせて父親の葬儀を行い、煩雑な相続の手続きをようやく終えて、イシギが家に足を踏み入れたのはつい先ほどだった。玄関まで迎えに出た人影が丁寧に腰折って一礼をする姿を見たとき、イシギは正直言って驚いた。まさか弁護士から聞いていなければ、そいつが精巧な作り物だとは見抜けなかっただろう。そこは父であるカノーの技術を認めてやっても良い。人工皮膚、臓器、骨格、知能、エトセトラを用意するだけなら、財力のある人間なら誰にだってできる。人工物をツギハギして見せかけの自然物を創造する……技術がほとんど頭打ちになったこの世紀において、アンドロイド造りの困難はその一点にあるのだった。
頭を抱えたまま唸っていると、突っ立っていたアンドロイドが、無表情のまま小首をかしげた。「イシギさま?」さらりと流れた黒髪が、室内の照明につやつやと反射する。美しい黒髪だった。イシギは顔をしかめた。
(機械のくせに生意気な)
カノーとイシギは〝血のつながった〟親子で、二人のDNAはセヌリタ系星に住んでいた人類にルーツを持っている。要するに肌は生白いし、髪と眼は真っ赤っかだった。アンドロイドが持ち合わせている暗めの色合いとはどうやっても折り合わない。こんなにイライラするのは色の食い合わせが良くないせいもあるかもしれない、とイシギはぼんやり思った。
とはいえ、じっさい気にくわないのは色だけではなかった。
イシギはもともとアンドロイドが苦手なのだ。実のところ、ふって沸いたこの遺産相続の話を聞き、目録を受け取ったとき、彼女は早々にアンドロイド抜きで、と弁護士に頼んでいた。しかしそれは言下に拒否されたのだ。相続条件は「全部まとめて」か「全部破棄」のいずれかしか選べず、にこやかな弁護士は頑として譲らなかった。イシギは舌打ちして、相続のサインをして、今まで暮らしていた大学近くの共同宿舎を引き払った。ご立派な家と卒業までに十分足る学資金を捨てるには、イシギは俗と雑念にあふれる現実世界に足を突っ込みすぎていた。
イシギがアンドロイド嫌いな理由は単純だった。
アンドロイドの胎内で蠢いているのは、プラスチックと鋼鉄の臓器、それからミルク色の合成血液に過ぎない。だがそれらを包む肌は、温かく、柔らかで、人間そっくりだ。それがなんでか、気持ち悪くて我慢ならない。この〝アンドロイド・アレルギー〟はイシギに限ったことではなく、どこの星でも人口のコンマ数パーセントが罹患しているらしかった。アレルギーというよりも単に頭が固いだけかもしれない。数百年も前の未開時代ならまだしも、いまは警官もアンドロイド、公共交通機関の運転手もアンドロイド、風俗もアンドロイド、どこへ行ってもアンドロイド。全ロイドの時代なのだから……。
ならばともに暮らしていくしかないではないか? 諦め、気を取り直して、イシギは目の前のアンドロイドに声をかけた。
「弁護士によると」イシギが一言発した瞬間、アンドロイドの瞳の奥がチカチカと瞬いた。じゃっかんの気後れを押し殺し、続きを口にする。「あんた〝メイドロイド〟なんだって?」
「正しくはヒ学習型メイドロイドでございます、イシギさま……」
家事手伝い型アンドロイドの俗称をやんわり訂正して、アンドロイドは妙に人間めいた仕草で腰を折った。イシギは反射的に学習型? と聞き返そうとして、口をつぐんだ。言葉の後に空けられた間が、こちらが学習型? と聞き返すことを予測しているような気がしたからだ。機械にいいように会話の主導権を握られるのはイシギの矜持が許さぬところだった。
「ま、いいけど」イシギは独り言の多い女だった。
「学習型ってさ」しかも安い矜持である。
「あれだろ。行動の積み重ねから最適解を求めるとかいうやつ。膨大なデータを蓄積して、もっとも高得点を叩き出すロジックを見つけ出す。つまり同じミスはしないし、徐々に期待以上の成果を出してくれるようになる、とかいう触れ込みのやつだろ? でもさ、そんなんはもうン十年も前からアンドロイドの標準装備だ。いちいち学習型って宣言されなくてもさ」
言いかけ、イシギは言葉を切った。嫌な予感がしたからだ。このアンドロイドは父親が心血を注いで造り上げたらしいと弁護士から聞いていた。それが、まさか、個人の力でアンドロイドを一から造ったのだとすると……。
イシギは身震いした。
この素敵な顔立ちのアンドロイドは、市場に出回る良品とは比べ物にならない、それこそ「学習型」が唯一の売りになっていた時代、数十年前のモデルに匹敵するような代物なのかもしれない。型落ちも型落ち、全自動洗濯機が洗濯板、浮遊ローバーが台車である。
(それは、まずいぞ。確かに高性能のやつは人間の真似が出来すぎて気持ち悪いが、型落ちなら型落ちで、また手入れが面倒に違いない!)
イシギは亜空間に消えたカノー博士の才能を微塵も過信していなかった。イシギが黙ったまま難しい顔をしていると、アンドロイドは物腰だけは丁寧に、例のぼそぼそ声で言った。
「失礼ですが」
「なんだよ」
「先ほども申し上げました通り、私は、正しくはヒ学習型メイドロイドでございます、イシギさま」
先ほどと全く同じ所作で腰を折るアンドロイドを、半ば薄気味悪い思いでイシギは眺めた。
(こいつ、わざとやってんのか?)
もちろん違うということは、イシギもわかっている。アンドロイドというやつは、そういうふうにできている……というだけのことだ。
「ヒガクシュウ? 初めて聞くな」
「そうでしょうとも、カノー博士が開発した全宇宙にただ一つの学習システムでございます。〝被学習〟ですよ、イシギさま。つかぬことをお尋ねしますが、イシギさま、現在主流の学習型人工知能についての知識はおありですか」
「ない」
「では少々お時間をいただけますでしょうか」
イシギは生命システム科学に一切の興味を持っていなかったので、十代後半の娘らしく、最近増えてきた枝毛を探すことにした。
「学習型人工知能には大きく分けて二つの分類がございます。一つは経験を集積し、インプット・アウトプットのフィードバックを繰り返し、よりよい行動へと修正をするIO型。そしてもう一つが、基本はIO型に倣うものの、突発的な乱数的イベントをあらかじめ内挿することにより経験の幅を自発的に広げるRE型。IO型はイシギ様のおっしゃったとおり、同じミスをすることはございません。しかしIO型には欠点がございます。必ず受身の反応しか返せないのです。経験していないことはわかりませんからね。逆にRI型は無秩序な学習体系ですので、参照ライブラリが充実するには非常な時間が要することになります。とんでもないミスを犯すこともしばしばございます。しかし、あらゆる無意味な行動についても経験を自発的に積み上げることができるので、IO型には決して真似できない人間的な行動が可能になるのです」人間ならば窒息死しそうな呼吸で講釈をたれやがる、とイシギは茶々を入れたくなったが、いい具合の枝毛が見つかったので、それは後回しにすることにした。「これらのタイプは経験に基づいた自己参照ライブラリに加えて、全家庭用アンドロイドの行動集約であるデータベース・サーバから定期的に行動パターンをダウンロードし、修正を行うことも可能です。ですが、データベース・サーバにあるデータは所詮は集約値。一般大衆の平均に過ぎません。自らの仕える主人に対して最適なパフォーマンスを返すためならば、やはり自らの経験に重みを置いた学習体系からの参照が理想でしょう」
イシギは要領の良い学生なので、本能的に講釈の終盤を嗅ぎ分けた。
見つけた三本の枝毛をさりげなく捨てて、アンドロイドを見やる。
「カノー博士はこれらの欠点を克服する手段を発見し、それを実践しました。それが唯一無二の人工知能、被学習型なのです。紙とペンしか愛せぬ不遇の娘のためにと、カノー博士が造り上げた〝人を愛する心〟を学習させる画期的なシステム……それを搭載したのが、この私でございます」
ふーん、と適当に聞いていたイシギはひっくり返りそうになった。
「ちょおっと待て! いま何て言った!」
「カノー博士はこれらの欠点を克服する手段を発見し……」
「違うっ!」
「それでは、それが唯一無二の人工知能……」
「それも違うっ!」
「では、紙とペンしか愛せぬ不遇な娘のために、のくだりでございますか」
「ございますか、じゃねぇーよっ! 誰が紙とペンしか愛せぬ、だ!」
テンポ良くツッこんだあと、イシギは恥ずかしくてたまらなくなった。まるで下手くそな漫才であった。いたたまれない空気が流れた。沈黙した室内に、ごううん、と普段はまず聞こえない空調機の音が低く静かに響いていた。
ふいにアンドロイドが尋常の様子で言った。
「イシギさまはカノー博士の娘でございますね?」
「そうだ」
「そして文法的に〝紙とペンしか愛せぬ〟がかかるのは〝娘〟でございましょう」
「そうだ」
答えながら、早くもイシギは嫌な予感がしていた。案の定アンドロイドは言った。
「ではやはり、紙とペンしか愛せぬ――はイシギさまでございます」
「三段論法で証明するなあっ!」
またしても反射的にツッこんでしまい、イシギは憮然とした顔を作った。
(くそ、こんなとこばっかりアンドロイド的な融通の利かなさを発揮しやがって……)
と、そこでイシギはもうひとつ思い出した。
「おまえ、そういえばまだ他に妙なこと言ってなかったか?」知らずイシギの頬は紅潮してしまった。「ひ、人を愛するとか何とか」
「〝人を愛する心〟を学習させる画期的なシステムを搭載した、のくだりでございますね」
「それだあっ! 何なんだよ、機械のくせに、愛とかどうとか!」
アンドロイドは突然、無感動な黒い瞳の奥をちかちかと輝かせた。そのまま、イシギに向かって一歩踏み込んでくる。
「カノー博士はイシギさまのことを大層気にしていらっしゃいました」
「な、なんだよ藪から棒に」
「カノー博士は、娘が勉学以外に関心を持つ事が稀だと、毎日のようにお嘆きになられていらっしゃいました。黒か白、一か〇、トゥルーオアフォルス、文字と数式の羅列が絡み合う二次元空間に心を奪われてしまった可哀想な娘!――イシギ様のことでございますよ――娘が、真の愛に目覚める事ができるように……。カノー博士はその一念で私を設計したのでございます。被学習型とは、人を愛する心を学習させる画期的なシステムなのでございます」
イシギは不吉な予感におののいた。学習する、ではない。学習させる。
「さ、させるってなんだよ」
「させるのでございます」
いつの間にか、アンドロイドの体がイシギのすぐ側まで迫ってきていた。どう見ても生身の男の腕が、イシギの耳のすぐ横に置かれる。イシギは壁とアンドロイドの間に閉じ込められるような形になった。追い詰められてしまっていた。
(ぎょえーっ!)
あわててしゃがみこみ、アンドロイドの脇をすり抜ける。イシギが振り向くと、アンドロイドは彼女が逃げたことにまったく動じていなかった。アンドロイドにか、こんなものを作った(そして送った)父親にかはわからないが、苛立ちのままイシギは唾を飛ばし飛ばし叫んだ。
「ど、ど、どこの世界に、自分の娘にアンドロイドをあてがう馬鹿親がいるんだよっ!」
「もうどこの世界にもいらっしゃいません」
「はあ?」
「カノー博士の存在は、どの座標軸にも見つけることはできませんでした」
言葉はぼそりと告げられた。
そのいかにもアンドロイド的な無味乾燥の答えに、しかしイシギは涙がこぼれてしまった。
アンドロイドとのやりとりはとんちんかんだったが、真実を突いていた。五年間の空白はカノーの生死をあいまいにしてしまった。弁護士に慣習上の死を告げられたときも、イシギは父親の死に実感を持てなかった。その奇妙な空漠が広がるばかりだった胸に、今は確かな悲しみがあった。
こんな形でカノーの死を突きつけられたくなかった。遺産として〝愛を教える〟アンドロイドが相続されたのならば、それはつまり、カノーが愛を教えてくれるということはもうないということだ。
アンドロイドはカノーの代理だった。
(こんな変なアンドロイドなんかに任せるな。あんたが教えてくれれば良かったんだ。なんでもいい、学校のふざけた保護者レクレーションでちょっと父親面してくれるだけで良かったんだ……)
カノーは忙しい男だったが、イシギの目にはときどき、彼が忙しさを盾に父親という役割から逃げているように見えることもあった。それも今となってはわからない。
カノーはもういない。死んでしまった。それも、もうきっとずっと前に。
涙に暮れるイシギの頬に、そっと手が置かれる。アンドロイドだ。顔にろくな表情がない分、添えられた手の優しさは確かな気がして、イシギはうつむいた。うつむいたことで頬にかかった赤い髪を、アンドロイドは丁寧に払いのけ、ちょっとしゃがんでイシギの涙に濡れた目元を躊躇いなく舐めた。
「ぎょえーっ!」
文字通り飛び上がって、イシギは逃げた。アンドロイドはその様子を機械的な眼つきで追っている。
「お、おまえ、馬鹿じゃないのか! 人の顔をいきなり舐めるなっ!」
動転したイシギは、ようやくそれだけを言った。
「悲しみに暮れるものには、優しく手を差し伸べてお慰めするのがよろしいと、カノー博士はおっしゃいました」
立ち上がったアンドロイドは馬鹿丁寧にお辞儀をしてみせた。イシギの感傷はすっ飛んでいった。
「あれのどこが慰めなんだよっ!」
「おやおや、イシギさまは、慰めという言葉が持つ意味をもしかしてご存じない? その昔、カノー博士が奥様に実践した折には大変な効果があったようですが。濡れた頬、見つめ合う二人、潤んだ瞳、手に手を取り燃え上がる愛の炎。絡み合う肢体は欲情におののき震え……」
「ええい、やめろやめろ! どこの三文小説だっ!」
若かりし父母の美しい思い出も、棒読み口調で読み上げるアンドロイドの手にかかってはロマンチックを通り越しておぞましいばかりだった。
(この……この……この馬鹿親父が!)
こぶしを握って震えるイシギを見て、アンドロイドは首を傾げた。
「お気に召しませんでしたか」
「当たり前だっ!」
イシギが怒鳴り返しても、アンドロイドは涼しげな顔をしていた。
「残念でございます……ですが、幸いにも、ご婦人を慰める方法には種々のやりかたがあるようでございます。イシギさま、お試しになられますか?」
言うなりアンドロイドが近づいてくる。イシギは「結構だ!」と言い捨てたが、アンドロイドは気にした様子もなく、再び彼女を壁際に追い詰めた。逃げ出そうと踏み出した右足を素早く踏みつけられて、悲鳴をあげる。正面のアンドロイドを睨みつけようとしたのだが、怒りにまかせて持ちあげたイシギの顎は、無骨な指先に捉えられてしまった。いつの間にか、イシギとアンドロイドの顔は鼻先が触れ合いそうな距離にあった。
イシギは一歩たりとも動けなかった。アンドロイドの指先が、イシギの顎の裏を無遠慮に撫でさすっていたとしてもだ。
「イシギさまは私のことを、混じりけなしの機械だと信じ切っておられるようですが」
「いや、おまえは機械だろ?」
またアンドロイドの瞳の奥がチカチカしている。またたいている。黒々とした双眸は、うっすら水気を帯びていて、イシギは場違いにも感嘆してしまった。(こいつ、涙まで実装していやがる)さっき舐められた頬が濡れているのは、自分の涙か奴の潤滑油かなんかであって、決して唾とかそういうアレではないはずだ。歯が白かったとか舌がぬめぬめしていたとかいうのはたぶん、たぶん気のせいだ。
「よく見てください。イシギさま。しっかり目を開けて。何が見えます?」
「なにって……アンドロイドだ。アンドロイドが見えるだけ……人間そっくりな……」
不覚にも語尾が震えてしまった。イシギは気が付いてしまった。このアンドロイドは呼吸をしている。こうして会話をするたびに、至近距離のくちびるから、そよそよと呼気が吹き寄せてくる。しかも温かい。いや、違う。アンドロイドは呼吸をしない。これはモーターだ。排気ファンのなせるわざだ。排熱のためにファンが回って、だからちょっと生温かいんだ、そうに違いない。というか、それよりなにより、だんだん顔が近づいている気がする。ありていに言うならば、接吻まで待ったなし。
「近っけえーよ!」
赤毛を振り立て渾身の力でアンドロイドを突き飛ばす。アンドロイドは力に逆らわずふわりと後退した。そしてまた無表情で首をかたむけるというあのしぐさを披露する。イシギがぜいはあと息を荒らげているというのに、アンドロイドは首をかしげたまま「ドキドキいたしました?」などとのたまっている。
「おまっ、おまえ、おまえまさか、……にんげん、なのか」
ごくりと唾をのむ。推測が正しいならば、父はわざわざアンドロイドと偽って生身の人間を遺産として相続させてしまったことになる。すわ人身売買か、いやいや奴隷商? この宇宙進出のご時世に? イシギの内心は嵐のただなかの小舟のように動揺していたが、続く「ジョークでございますよ」という言葉で、大波が縁を超え、イシギ丸は難破した。
「はあ?」
「イシギさまは、学習させがいがおありでいらっしゃる。ええ、実に」イシギの見間違いでなければ、この顔の綺麗なアンドロイドは主人に向かって舌なめずりをした。「実に、喜ばしいことです」
次の瞬間、イシギは恥も外聞もなく相続したばかりの家から逃げ出していた。もちろん、あの弁護士に遺産の放棄を告げに行くのである。
(もういい! 家も学費もいるものか! こんな遺産、惜しくもないっ!)
実に相続から二日と三時間十三分も経たぬうちの出来事であった。




