失敗は始まりの元
辺りが薄暗いオレンジ色に染まる黄昏時。ついに人間共が住む村襲撃の時が来た。
魔王城のとある一室は広く、床には巨大な魔法陣が描かれていた。
魔物達は斧や鉈など、各々の武器を手に、その巨大な魔法陣の中にガヤガヤと集まっていた。
その数は百匹以上はいるだろうか。
そして魔王は、巨大な魔法陣の近くに描かれた小さな魔法陣の中で、一人神経を研ぎ澄ましていた。
「静まれ!」
魔王の陣の傍に居るアンスが老いた声で叫ぶと、辺りがシンと静まり返り、皆目の前に居る魔王を一斉に見る。
「これより、ウォーマ様から戦いの前のお言葉がある!皆、心して聞け!」
魔王、ウォーマは魔物達を見渡し、低い声で言う。
「我ら魔物に害成す憎き人間共への復讐だ!!残虐な奴等を許すな!奴等を殲滅するぞ!」
「「「ウオオオオオオーーーーー!!!!」」」
魔物達から雄叫びが上がり、皆各々の武器を頭上に掲げる。
だが、その中に一匹…武器を掲げずに静かにウォーマを見つめる者が、大勢の中に隠れるように居た。
意気揚々と声を上げる者達の中にひっそりと混じっていて、その者に誰も気づかない。
「これからウォーマ様が詠唱を始める。無事でありたければ、皆その陣の中から一歩も出るでないぞ。その場で静かに待て」
辺りがまた静寂に包まれる。
ウォーマは一度深く深呼吸してから、大きく息を吸い込む。
そして、詠唱が始まった。
「全ての者の傍にあり、全ての者に与える、『時』よ。我が力を喰らいて、今、我が意思を聞け。我が意思を届けよ。この…」
ウォーマの詠唱だけが室内に聞こえる中、突然ヒュンッ!という音が聞こえた。
そして、カランという音と共に、何かが詠唱中のウォーマの近くに落ちたのだった。
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深く深呼吸し、落ち着かせる。
それからもう一度大きく息を吸い込んで、詠唱を始めた。
「全ての者の傍にあり、全ての者に与える、『時』よ。我が力を喰らいて、今、我が意思を聞け。我が意思を届けよ。この…」
もう少しで全部言い終える、その時だった。
突然目の前に蓋がついた缶のようなものが落ちてきた。
その蓋は落ちた時に外れ、中から粉のようなものが飛び出してきた。
不審に思ったが、それは爆発するわけでもなく、粉が床にぶちまけられて、ただ鼻がムズムズするだけだった。
慌ててアンスがそれを撤去し、周囲を睨みつけながら声を荒げる。
「誰だ!今これを投げた者は!」
辺りがざわつき、後方の方で「離せ!」という叫び声が聞こえてきた。
見れば、石でできた体を持つゴーレムが、巨大な手で誰かを捕まえて持ち上げていた。
あの持ち上げられている小さい魔物は…ゴブリンか。
「オマエは…!ゴブリンの一族か!ウォーマ様に危害を加えようとする者がどうなるかわかっておろうな!?」
アンスが凄まじい殺気を放ちながら言い、持っていた杖がぼんやりとした光を放ち始める。
その光は明るい光ではなく、薄暗い光だ。
巨大な魔法陣の中に居る目の前の魔物達は、そんなアンスの様子を見て、皆凍り付いていた。
「ウォーマ様、申し訳ありません。あの者を今排除致します故、詠唱を仕切り直して下さいませ」
アンスは頭を深々と下げた後、ゴーレムが握っているゴブリンの方へと杖を向ける。
フードを深く被っているせいで相変わらず顔は見えないが、表を上げた時、一瞬蛇のような目が奥で青白く光って見えた。
あのゴブリンは瞬殺だなと思いながら、ゴーレムの手の中でジタバタともがいているゴブリンを見る。
きっとあの者は、ただの駒だろう。
魔王の座を狙うどこかの集団に「詠唱中の隙を狙え」と、そそのかされたに違いない。
力ある魔物は力に比例して体も大きい。だから妙な真似をしようものなら、すぐにアンスや周りの者に見つかってしまう。
その点、ゴブリンは小さい。他の魔物達に隠れて狙うことはできるだろうが、攻撃力もそれなりに弱い。
仮に弓矢でこちらを狙ったとしても、詠唱を止めて、その飛んできた矢を即座に粉砕する事も可能だ。
力のない者がいくら詠唱中の隙を狙ったとしても、未遂に終わるのは目に見えているであろうに。
(無駄なことを…)
アンスの杖の先端から放たれた黒い光がゴブリンに命中し、突如現れた茨にゴブリンが巻かれていく光景を、溜息を洩らしながら眺めていた。
やがて茨は透明になり、うっすらと消えていくと、ゴーレムの手に握られていたはずのゴブリンは跡形もなく消えていた。
そしてアンスの杖は赤黒く染まり、ゴブリンを“喰らった”杖はどこか満足気に見えた。
(…やはり不気味な杖だな…)
杖を見つめながら思っていると、アンスがこちらに向き直って頭を下げて言った。
「ウォーマ様、大変申し訳ありませんでした。他の護衛ももう問題ないと言っております。どうか詠唱の仕切り直しを…」
「うむ。ご苦労。では、始めるぞ」
静まり返った室内の中で、アンスがもう一度周囲に警告をする。
再度深呼吸をし、大きく息を吸い込む。
息を吸い込んだ時、どこか少し違和感がある気がしたが、今度こそ一気に言ってしまおうと集中する。
「全ての者の傍にあり、全ての者に与える、『時』よ。我が力を喰らいて、今、我が意思を聞け。我が意思を届けよ。この『時』を我に与えた、ま…ぇぶぇっくしょん!」
「「「………」」」
「ウォ、ウォーマ様…」
「………」
言い終える最後の最後、盛大にくしゃみをしてしまった。突然猛烈に鼻の奥がムズムズしたのだ。
目の前の数百匹といる魔物達の視線とこの沈黙が辛い…。
そして、巨大な魔法陣と自分の魔法陣はなんの光も放たず、魔法の発動に失敗した…と思っていると、何故か自分の魔法陣だけが光りだした。
(!?な、なんだ!?)
アンスが何かを叫びながらこちらに向かってくるのが見えたが、あっという間に魔法陣の強い光に包まれて、目の前が真っ白になった。
その目が眩むような光は、まるで身を焼かれるような強さで、全身がヒリヒリと痛んだ。
(熱い…!なんだ、これは…!くそっ!全身が焼かれているようだ…!)
今まで空間移動の魔法は何度か使ったことがあったが、魔法陣からこんなに眩い光が発せられたことはなかった。
魔界では、光は全て仄暗い。魔物にとって、光は苦手なものだった。
だから、炎の魔法を使いたがる者もあまりいないし、なるべく部屋に灯りも灯さない。
こんな光は初めてだった。目の前は真っ白で何も見えず、目が痛い。
皮膚が、骨が、目が、頭が、全て焼き尽くし、どんどん溶かされていくような感覚に、焦りと、初めての恐怖を抱いた。
得体の知れない何かに、初めて「怖い」と思った。
(死ぬ…のか、こんなところで…こんな形で…まだ、まだオレ、は……)
あのリングを付けた奴は誰なのだ。
何故自分にこのリングを付けたのだ。
なんの意味があるというのだ。
そして自分は一体…何をしたというのだ。
(くそっ……)
目を閉じているのか、開いているのかさえわからなかったが、ただただ目の前は真っ白で。
体を溶かすその白は、燃え盛る炎が村を侵食していくあの光景と重なって見えた。
そして、意識はそこで途絶えた。
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ざわざわとした音で目が覚めた。
視界はぼんやりとしたものからだんだんと鮮明になってくる。
どこかの地面が見えるが、地面は灰色だった。魔界のものとも、人間の村の土とも違う…。
どうやらどこか知らない地に飛ばされ、倒れてしまったようだ。
空間移動の魔法は、少し詠唱や魔法陣の書き方を間違えただけで、全く違う場所へ飛ばされたりする。
詠唱中にくしゃみをして、しっかりと詠唱できなかったのだから、失敗してどこかに飛ばされてしまったのだろう。
「………」
まだ自分が生きていることに安堵しながら、ゆっくりと起き上がり、辺りを見回そうと顔を上げると、二人の人間が自分の顔を覗き込んでいた。
「!?」
突然のことに驚き、座ったまま後ろへ下がる。
ジャリッと嫌な音がして、砂っぽい感触が手から伝わってくる。
砂利を踏んだのかと、ふと手を見ると…
「…っ!?」
驚きのあまり、声が出なかった。
人間だ。五本指の人間の手がそこにはあった。
そして、その人間の手首にはあの忌々しい赤黒いリングがはめられていた。
もう片方の手首にも、両足首にもリングがついている。足もしっかり人間だ。
そして、恐る恐る首元に人間の自分の手をやると、リングに触れた。
どういうわけか、体が全部人間のものになっているが、これは正真正銘自分の体だ。
この忌々しいリングがそれを証明していた。
「ねぇ、お兄さん大丈夫~?」
「大丈夫かよ?酔っぱらってんの?財布とか盗まれたんじゃね?俺らが見た時にはもう鞄とかなんもなかったっすよ」
顔を覗き込んでいた金色の髪をした男女がこちらに話しかけてくる。
女の方は髪が長く、何故かクルクルしている。
目は大きく、目の下にはピンク色の太い線が横に描いてあるように見える。
口は真っ赤で、体からは妙な匂いがする。
男の方は目元に真っ黒なものをかけていて、目が見えない。首からは何か金属のようなものを下げている。
何か食べているのか、口元を常に動かしていた。クチャクチャと音も聞こえる。
しかも、二人とも見た事のない服を着ていた。
人間の村では、服というものを着ることを知っていたが、皆同じようなものだった。主に白地の布と縄が使われていたはずだ。
だが、目の前の人間の服は白ではなくカラフルで、女は足がよく見えるし、男は腕がよく見える。
どちらも見える腕や足は細い。そもそも体自体小さく細い…。
「………」
「ねぇ、まだ酔ってんじゃね?ずっと黙ってるし。ウケんだけど」
「コスプレして騒いで酔い潰れてるとか、お兄さんヤバイっすね」
「……キサマらはここの村の者か?」
二人が何を言っているのかよくわからなかったが、バカにされているのはなんとなくわかった。
とりあえず村の名前を聞いてから殺しておこう。そう思って訪ねてみると、更にバカにしたような返事が返ってきた。
「マジ!?キサマだって!聞いた?マジウケるんですけどー!村とかいつ時代って感じだし~」
「やべぇな、マジウケるわ、ぱねぇ。なりきってんならもういいっすよ、あんたのお仲間はとっくに帰って居ないし。やべーウケるわ」
二人は笑っていた。無性に腹が立った。
もういい。コイツらは要なしだ。殺しておこう。
二人を睨みつけながら、風を呼ぶ魔法名を心の中で唱え、手を二人に翳すように向ける。
この人間の体では物理的な威力は発揮できそうにない。ならば、魔法を使おう。
突風で上空に巻き上げて地面に叩きつけてやる。そう思った。
「………」
「え?何?なんなの?なんか手かざしてるんだけどー、意味わかんない。マジウケるー」
「なんなんすか、気でも読めるんすか?そういう設定もういいんで。俺らもう行きますよ」
「えー、この人どうすんの?酔っぱらってんなら警察とかに連れてってあげた方がいいんじゃね?」
「やめとこうぜ、こういう変な奴には関わんない方がいいだろ。めんどくさそうだしさぁ」
「でもあの角やばくない?よくできてるよね~最近のコスプレってマジすごいわ。ヤバイ。あ、写メ撮ってもいいですかぁ~?」
待てど突風は起きず、またも二人はバカにしたように笑うだけだった。
しかも、女の方は四角い物をこちらに向けてきている。
「なんだそれは」
「は?スマホでしょ?なに?お兄さんまだガラケーなの?やばっ」
「おい、人が来るから早く行こうよ。知り合いだとか思われたくねぇし」
「あ、ちょっと~」
女は男に手を引っ張られ、二人は行ってしまった。
何故突風が起きないのだろうか…まさか人間の体では魔法も使えないのか?
呆然と立ち尽くしていると、通り過ぎる人間達と時折目が合ったが、すぐに目を逸らされた。
辺りは暗く、空は夜のようだ。
通り過ぎていく人間達は少なく、広い道には同じような四角い物体が沢山走っていた。
ここは一体どこなのだろうか…自分は一体どうなってしまったのだろうか…
途方に暮れていると、背後からポンポンと肩を叩かれ、声をかけられた。
「君、ちょっといいかな?」
振り返るとそこには、青と白の服を纏い、青い物を頭に乗せた若い男の人間が立っていた。