ヴぁんぷちゃん、動けなくなる。
忘れ物をした。
そんな嘘だとしか言いようがない言い訳をしてから、ルーミアは自宅に帰っていた。
逃げ帰っていた。
鍵をしっかり閉めて、乱雑に閉めたせいか、厚手のカーテンの間には、少しだけ隙間が開いている。
夜だという事を差し引いても充分に暗い、壁と床の淵さえ見えない部屋の中で、ルーミアはうずくまって、傘をいじくっていた。
バッ、バッ。と暗い部屋の中で傘が開く音がする。
日傘を開いて、閉じて、開いて、閉じて。淡々とそれを繰り返す。
果たしてそれに意味があるのかと問われると『ない』としか言いようがないのだが、理由はある。
忘れたいのだ。
とにかく何だっていい、何かし続けて気分を反らしたかった。あの光景から目を逸らしたかった。
ただひたすらに、ルーミアは傘を弄り続ける。
そうしている内に夜は明けて朝になった。
姿を見せた太陽はゆっくりと青い空にのぼり、あたりに暖かな光を注ぐ。
開いているカーテンの隙間から日光がゆっくりと伸びてきて、ルーミアの素足と重なった。
「あっ――つ!?」
途端にルーミアの白磁のような柔肌の素足は燃え盛り、ルーミアは不意の激痛に顔を歪めて、思わず傘を投げ捨ててしまう。
体を捻って、畳の床に倒れ込んだルーミアは、燃え盛る足を庇うように蹲りながら、片腕を必死に伸ばして、カーテンを掴んで日の光を遮った。
「ゆ、油断してたわ……」
脂汗を額に滲ませながら、ルーミアは隙間が出来ないように二枚のカーテンを重ねた状態で、洗濯バサミでそれを固定する。
少し明るくなっていた部屋が、もう一度暗くなる。
「……」
真っ暗な部屋。
外からやって来る日光を徹底的に排除した部屋。
ルーミアは自分の足に視線を落とす。
白磁の肌は太陽の光に焼かれて中身の筋肉が露出していて、その隙間から白い骨が覗いている。
少しずつ、薄皮がそれを覆うようにゆっくりと治っていくが、普通のケガと比べて治りは遅く、痛みも格別だ。
吸血鬼は日光に弱く、その破片である炎によるケガの治りは遅い。
吸血鬼にとって日光というのは天敵他ならない。
だから彼らの住む家は、こうして日光を徹底的に遮断した暗い家になる。
それを知っていれば、この家の状態にも納得できるだろうけれど、それを知らなければ――ルーミアが吸血鬼だと知らない人は、この家のことをどう思うだろうか。
今まで暮らしてきて馴れている人はなんとも思わないだろうけど、初めて見た人は驚くのではないだろうか。
ゾンビの部屋を初めてみた自分のように、驚くのではないだろうか。
自分にとって最適な空間がこの部屋であるように。
彼にとって最適な空間はあの部屋だったのではないだろうか。
だとすると、嘘をついてまで逃げだしたのは凄く悪いことをしてしまったのではないだろうか。
『悲しむ』事の出来ないゾンビでも、残念に思ったのではないだろうか。
落ち着いてじっくりと考えてみると、少しずつ、罪悪感が滲み出てくる。
「……謝ってこようかしら」
ポツリと、ルーミアは呟く。
それは『自分の失点』を認めるという、相手の下手にでざるを得ない行動で、見下されるのが嫌いな、プライドの高い彼女らしからぬ考えだった。
自身の変化に気づいていない様子のルーミアは、さっき勢いあまって投げてしまった傘を手にとり、さっそくゾンビの家に向かおうとしたのだが、がくんと、前に踏みだした足から力が抜けて、支えのなくなった体が畳の床に叩きつけられた。
「いたっ……!」
畳に頭からぶつかってゴツン、と重たい音がルーミアの額からした。
額を赤くしながらルーミアは眼だけを動かす。
いや、どちらかと言うと眼だけしか動かせなかったの方が正しいか。
体から力という力が急激に抜けて、指一本、動かせなくなっていた。
「ど、う、こ……?」
呂律もうまく回らない。
全身から力が感じられない、さながら投げ捨てられた人形のような有様のルーミアには、この現象に覚えがあった。
昨日、ゴーレムの横薙ぎの一撃を避けようとしたあの時もこうして、自身の体を地面に叩きつけていた。
原因不明の力の消失。
あの時と全く同じ現象が起きていた。
少しだけ違う点があるとすれば、あの時は急に力が抜けたって感じだったが、今回は力が吸い取られているような……。
「……れ、て」
ルーミアは右手を見る。
右手はゾンビから貰ったフリルのついたコウモリ傘を握っている。
彼女の小柄の体を日光から守ってくれる大きな黒色の傘なのだが、さっきルーミアが焦って投げてしまったせいか、彼女が握りしめている部分だけ色がはげていた。
いや。
それは色がはげているというより、生地の間に挟んであったものが露出していると言う方が正しいだろうか。
「な……れ……」
プルプルと力の入らない指をなんとか動かして、その下に隠れている『何か』をルーミアは見た。
それは『お札』だった。
意味不明な、まるでミミズみたいな線が筆で書かれている、白い長方形の紙が、生地と生地の隙間に何枚も貼られている。
「んで……な、が……」
自分はどうやらこの『お札』によって弱体化されているらしい。
これでどうして力が抜けていっているのかは分かった。
しかしその代わり、新たな疑問が浮上する。
――どうして。こんなものが仕組まれている?
何度思い返してみても、これはゾンビからもらったそれであり、すり替えられた覚えもない。
見ていない内に交換されていた。という事もないはずだ。
そんな事があればさすがに気づく。どれだけ精巧に造られた贋作であろうと、気づくことが出来る自信が、彼女にはあった。
しかし今日に限って、今回に限って、その自信は揺らいでしまう。
彼女の足元が音を立てて崩れていく。壊れていく。
彼女らしくなく、自信家の彼女らしくなく、自分の至った答えが違っていてほしいと願ってしまう。
だって。
すり替えられていないとすれば、贋作でないとすれば、これはゾンビから貰った時から仕込まれていた事になるのだから。
ゾンビはこれを知っていて、自分に渡したというのだろうか。
ゾンビはこれを知っていて、自分になにも言わなかったのか。
分からない。理解らない。
「と……く、ふく……」
確かゾンビに貰ったお土産が部屋の隅にあったはずだと、立ち上がることすらままならない体を引きずりながら移動していると唐突に、ドアノブがガチャガチャガチャ!
と音をたてながら回転し始めた。
「な――」
なに? と。ルーミアがそれを見ながら言おうとした直後に、ドアノブは吹っ飛んだ。
外から力任せに蹴飛ばされて、ぶっ飛んだ。
壁に一度衝突してから部屋の中を転がる、少しひしゃげたドアノブと、ドアの破片を呆然と眺める。
ドアだった木の板の厚さは防音的にも防犯的にも身を任せるには心もとないほど薄かった。
現に今もこうして、何者かの侵入を許している。
ドアノブを失ったドアは頼りなく開いて、それを破壊した男は図々しく土足のまま部屋の中に踏み入った。
男は白装束を着ていて、ルーミアの『魅了』対策だろうか、顔の上半分を隠すようにフードを目深に被っている。
ルーミアはその男に見覚えがあった。
昨日の夜、ゴーレムを従えてルーミアを襲ってきた退魔師である。
この家の場所は知っているだろうと予測はしていたものの、まさかこんなタイミングにやってくるとは、さすがに予想外というか不運そのものだった。
敵の襲撃。自分は力が抜けていて、動くことすらままならない。
誰がどう見てもピンチでしかないその状況なのに、どうしてかルーミアは男を見ていなかった。
敵を見ることなく、その背後、壊れたドアの先を見ていて、ありえないと言わんばかりに顔を歪めていた。
さもありなん、なんせ男の背後には、いつも通りの変わりないゾンビが立っていたのだから。
「ん?」
部屋の真ん中で倒れているルーミアを見つけると、ニヒルに口元を曲げる。
「そろそろ吸血鬼も、そうとう弱まっているだろうと思って敵陣に踏み込んできた訳だがなんだ、弱まりきってるじゃあないか、衰弱しきってるじゃあないか。どれだけ傘を気に入ってたんだ?」
男は喜びの声をあげるが、そんな彼を、ルーミアは見ていない。
その背後にいるゾンビを見続けている。
衰弱しきっている虚ろな目で、ゾンビを見続けている。
ゾンビはいつもと変わらない、いつもと同じ様子だ。
この緊急事態に、変わらない状態でいる。
まさか偶然たまたま、ここにいる訳ではないだろう。だったら、男が侵入している時に、しっかりと止めているはずだ。
ならば……。
「これならお前の役目は必要ないかもしれないな」
「それはちょっと困るね」
「あ……な……?」
ルーミアは弱々しく唇を開く。白い牙が一瞬ちらりと見えるほどにしか開けず、声というよりは音が漏れる。
「あん?」
男はルーミアの顔を覗き見る。
そしてどうやら彼女が自分ではなく、背後にいるゾンビを見ていることに気づくと。
「ああ、なるほど」
と言った。
「なるほどなるほど、つまりお前はこいつの事を自分と同じ奇っ怪なものだと思っていた訳か」
いや、別に間違ってはいない。こいつとお前は同種だと、男は親指で後ろにいるゾンビを指しながら、少し芝居かかった口調で言う。
「ただ、こいつはお前のような奇っ怪なものから受け継がれた元人間じゃなくて、ゴーレムのように初めから奇っ怪なものだという事だ」
分かるか? と男は言う。
「こいつは人の手によって創られた『化物』なんだよ」




