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生まれたての小鹿のように震えるフィルートを、舌なめずりでもしそうな狂暴な目つきで見下ろしたアヴァンだったが、体から両手を離してくれた。
「まあ、いつでも食える。とりあえず服を着ろ。侍女を呼んでやる」
解放された途端、その場にへたり込んだフィルートは、聞き捨てならず、声を上げる。
「おおおお、おい! 食うって、どういう意味だ!」
声は可憐でしかなく、しかも震えている始末。床に両手をついてへたり込み、怯える青い瞳で睨んでも、迫力など欠片も無かった。
背を向けようとしていたアヴァンは、くつりと愉快気に笑った。
「お前の四肢を切断し、骨から肉を剥ぎ、焼くんだ。内臓は取り出して血抜きをして、新鮮なうちに刺身にして頂く」
フィルートの顔は真っ青になった。
「なななな、おま、お前!人肉を喰うのか!?」
アヴァンは赤い瞳を細め、至極当然と頷く。
「ああ。デュナル王国では、伝統的な食事だ。男の体は筋肉質で固いからな。女の体にして柔らかくしてから、生きたまま四肢をもいでいくんだ」
――ぎゃあああああ! 残虐です! 魔王! 本物の鬼畜生です、神様!
血の気を失い、かたかたと全身が震えはじめた。フィルートの真っ白になった肌をふむ、と妙に落ち着いた顔つきで見おろし、アヴァンは顎を撫でる。
「……と言うのは嘘だ」
「う……うそ……?」
半泣きになってしまっていたフィルートは、潤んだ瞳でアヴァンを見上げた。アヴァンの頬が、ひく、と痙攣した。
――怖い……
アヴァンは今にも八つ裂きにしたい、と言いだしそうな凶悪な目つきで、フィルートの顔を凝視していた。そして沈黙。
「…………」
「なっなんだよ! なんか言えよ! 怖いんだよ、お前の目!」
アテナ王国に、赤い瞳の人間はいない。デュナル王国の人間だけが、この世で唯一、赤い瞳を持つ。アテナ王国では、血を吸った瞳だと忌み嫌われており、闇魔法使いを忌避する理由の一つになっていた。
アヴァンは真っ赤な瞳を、やんわりと細める。
「デュナル王国民は皆、目は赤いものだ。慣れろ」
「なんでお前の国の人間だけ、全員赤い目なんだよ……」
アテナ王国の民の目は、色々だ。黒から始まり、茶、金、青、緑と多岐にわたる。
アヴァンは鼻を鳴らした。
「それが世の理だ。知りたければ、創生神にでも尋ねるんだな」
――創生神なんか、どこに行けば会えるんだよ……。
がくりと項垂れた頭に向けて、アヴァンはさらりと言い捨てた。
「『食う』というのは、お前の体を抱く、という意味だ。楽しみにしておけ」
さっと踵を返した黒いマントに、フィルートは叫んだ。
「待て待て待てええええ! 僕は男だぞ! 殺すなら即死させろ! あと、僕のパーティメンバーはどうしたんだよ!」
『抱く』という言葉は、聞かなかったことにした。
今更になって、自分の仲間がどこにもいないことに気付いたので、ついでに尋ねる。
アヴァンは面倒そうに顔を顰めて、肩ごしに応えた。
「煩い奴だ。お前は殺さない、と言っただろう。フィルート・サヴァエラは先の襲撃で、魔王に返り討ちにされて死んだ――と記憶を操作されたお前の仲間たちが、無事に国王に報告を済ませている。安心しろ」
フィルートはあんぐりと口を開けた。
――記憶を操作したって言った……。
光魔法には、人の肉体に直接干渉する術がない。男を女に変化させる術など、論外だ。そんな魔法が存在することを知らなかったフィルートは、現状を受け入れ切れない。
だが目の前の魔王――アヴァンは、事も無げに記憶の操作を明言し、実際にフィルートの体を変化させている。
絶対的な力量の差が――目の前にあった。
やっと自分の立ち位置を意識したフィルートは、反論する術を失った。
突然言葉を失ったフィルートを胡乱に見下ろしたアヴァンは、赤い瞳をとろりと情欲に染めて、笑んだ。
「あまり俺を煽るな、生娘。今すぐにでも、お前を血だらけにしてやりたくなるだろう……?」
フィルートは怯える瞳を、丸くするしかない。血だらけとはつまり、破瓜の出血を意味しているのだろう。
――真正の鬼だ……。
言外に、優しくなどしないと宣言したのだ。
アヴァンは今度こそ背を向けて、衣裳部屋から出て行った。
「お前はフィリア・サヴァエラとして、俺の嫁になるんだよ、フィルート」
扉が閉まる直前、優しげな声が耳に届いた。
「ふぃりあ……」
新たに与えられた名を呟いた声は、愛らしく、耳に甘い。
フィルートはぎこちなく俯き、両手で顔を覆った。
――魔王の嫁……。
「いやだあああああ!」
可憐な少女の叫び声は、無情にも誰の耳にも届かなかった。