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目覚めると、白い天井が目に入った。次いでその周囲に布が垂れ下がっているのを認識し、天蓋だと理解する。重い体を訝しく思いながらも、視線を自分の周りに向けた。
「……花のベッド……」
フィルートは唖然と呟く。自分の周りは、桃色の薔薇の花弁がぎっしりと敷き詰められていた。濃厚な甘い香りが全身にまとい付いている。
――趣味の悪い寝床だなあ。
両手足の感覚はあるので、とりあえず起き上がったフィルートは、自分の衣服に眉根を寄せた。
「なんだこれ……」
着ているのかどうかも怪しく思われる、薄手の衣服だった。
肩はただの紐。胸元は豪奢なレース。体は薄い布が覆い隠しているが、若干透けている。そして膝上の裾もまた豪華なレースが飾っている。
「え?」
普通に自分の体として認識したそれらを、フィルートはもう一度確認した。特に、その胸を。
レースに覆われた胸元。ふわりと膨らんだ丸み。
――病気か?
はっと自分が魔王に倒された事を思い出した。まだ生きているが、五体満足であるはずが無い。
よもや腫れ上がってここまで膨れてしまったか、と恐る恐るレースを捲ってみた。
「……」
フィルートは、レースを元に戻した。
――僕は何も見ていない。
そう自分に言い聞かせ、ふと腕を見る。細い腕が動いていた。
「えっと……」
筋肉で覆われていたはずの自分の腕が、華奢な細い腕に見える。本当に自分の腕か怪しく、上下に振ってみるが、やはり動いたのは視界にある細腕。
――幻覚作用のある何かを飲まされたのか?
ベッドの上に投げ出された細く滑らかな脚線美に、唸る。触ってみると、自分の肌である感触がした。
「…………」
――夢だな。
フィルートはどさりとベッドに横たわった。たゆん、と胸が揺れる感覚が襲う。
「…………」
ちら、と自分の胸を見る。見事な谷間が形成されており、レースの隙間から桃色の乳輪が――。
「わああああああ!」
フィルートは顔を覆って、視界を閉ざした。
男として最も重要であるあそこは、恐ろしすぎて確認すらできない。けれど――けれども、下着を付けている感覚は無い。そして、脚の間にあるであろうアレの感触は、どこにも感じられない。
「――煩い」
低い、どうでもよさそうな声が頭上から聞こえた。かっと目を見開いたフィルートの視界に、優雅な動作で天蓋をめくる男の姿が映る。
漆黒の髪に、赤い瞳。高い鼻筋に形良い唇。見事な体を覆う衣装は黒。
濡れたような漆黒の髪の下――妖しげな赤い瞳が愉快気に笑んだ。
「気分はどうだ、我妻よ」
フィルートは勢いよく上半身を起こした。
「わ……っ我妻あ?」
――アホかこいつ。脳みそ沸いてるんじゃないか?
魔王の目が、フィルートの瞳から唇、首、胸の谷間に視線を注いでいく。本能的に、フィルートは両腕で上半身を抱きしめた。
「み、見るな!」
魔王はくつ、と喉を鳴らし、更にくびれた腰、しなやかな曲線美を描く尻、そして足先までたっぷりと舐めるように眺めまわした。
「ややや、止めろ! 僕を変な目で見るな!」
なんて凶悪な視線なんだ――!
視線で何かを汚された感覚に陥ったフィルートは、ぷるぷると震える。
「初々しい反応だな、フィルート。今すぐ襲ってやろうか?」
ぞく、と耳から首筋にかけて悪寒が走った。フィルートは俊敏にベッドの反対側に後退した。
「馬鹿か! 男を襲って何が面白いんだ、馬鹿!」
魔王は面白そうにくつくつと笑い、小首を傾げた。
「俺の名はアヴァンだ。旦那様の名前くらい、きちんと覚えておけよ……」
フィルートは魔王――もとい、アヴァンの顔を凝視する。魔王にも名前があるのか、と変なところに感心してしまった。
一瞬呆けた隙をついて、魔王はあっさりとフィルートの腕を掴んだ。
「うわっ!」
いつもなら踏ん張れたはずなのに、体が異様に軽く、抵抗もしていないような速さで魔王の腕の中に引き寄せられる。ふわりと、香水の匂いが鼻を掠めた。温かみのある柔らかな香りの中に、ほんの少し甘味がある、大人の男の匂いだった。
匂いに意識が持っていかれたフィルートが気付いた時には、アヴァンに横抱きにされていた。
「おおおい! 男を横抱きにするなよ! 気持ち悪い!」
アヴァンはちろ、とこちらを見やり、意地悪気に口の端を上げる。
「自分の目で確かめろ」
ベッドから出ると、隣の部屋に移動した。白を基調とした部屋には、大量の女物のドレスが吊るされ、一方の壁にはずらりと高価そうな靴が並ぶ棚が、天井から床まで取り付けられている。衣裳部屋のようだ。
両脇を衣装と靴が覆い尽くす部屋の奥は、壁一面が鏡になっていた。フィルートは眉根を寄せた。魔王の腕の中に、華奢な体の少女が納まっている。それも肌が透けるネグリジェ一枚で、あられもない姿だ。
「おいおい……お嬢さんに失礼……」
いくら魔王でも、見るからに貴族のご令嬢の、無防備な姿を他人に見せるものじゃない――と、諌めようとした自分の言葉が、少女の口から吐き出された。
「え……」
鏡の中の魔王は、にや、と笑って、少女を床にそっと降ろす。
フィルートは、自分もそっと床に降ろされて、なんだこいつ気持ち悪いな、とアヴァンを睨んだ。
アヴァンは面白そうな瞳で、フィルートを見下ろす。
――なんかこいつ、前より身長が伸びていないか?
魔王はフィルートよりも背が高かったが、戦っていた時は、もう少し視線が近かった気がする。魔王の口角が上がった。
「俺ばかり見てどうする。自分の姿を確認しろ」
「何言って……」
フィルートは先程の鏡を振り返る。ふわり、と白金色の髪が弧を描いた。鏡の中の美少女が、目を丸くする。青く澄んだ大きな瞳は、どこかで見た覚えがある。柳のように細い眉、小ぶりな鼻、桃色の艶やかな唇。
「……おお?」
少女の唇が小さく開き、同じ声を漏らした。
――なんか声が違う。
鼓膜に響いた声は、かつての自分の声よりも、高く、涼やかだった。喉を押さえると、鏡の中の女の子も首を押さえる。
「…………」
フィルートは、現実を受け入れようかどうか迷った。
豊満な胸、くびれた腰、見事な曲線を描く尻、そして細くしなやかな足。
背中に届く白金の髪は見覚えがある。大きくて童顔になるから、気に入らなかった瞳は、小ぶりな顔の中でしっくりと納まっていた。
ぱちりと瞬く。
美少女の後ろにのっそりと佇む魔王――アヴァンが、にやにやと笑って身を屈め、長い腕を腰に巻きつけた。
びくり、とフィルートの体が跳ねる。
「こ、腰に触るな!」
――腰は弱いんだよ!
アヴァンはフィルートの文句を聞き流し、鏡を見ろ、と顎をしゃくる。
美少女を背中から抱きすくめるアヴァンと、視線が合った。
「可愛いだろう。これが、俺の嫁だ……」
言いながら、大きな掌が腰から下を撫でていく。ぞくぞくと寒気が走り、フィルートはその手を掴んだ。
「ややや、やめろ! 男なんか触ってどうする……っ」
魔王は片眉を下げ、短く息を吐く。呆れた顔が、鏡の中の美少女を見返した。
――なんだその顔は! むかつくぞ!
「やれやれ、これのどこが男だ」
もう一方のアヴァンの手が、胸の膨らみを包み込んだ。
「うわあ!」
「色気がないな……」
突然胸を鷲づかみにされ、フィルートはのけ反る。しかし背中にはアヴァンが居るので、逃げ場がない。
何を思ったのか、アヴァンは胸を揉み始めた。もう一方の腕がしっかりと腰を抱き、身動きできない。
「なに、なにを……っ!」
柔らかな胸を揉みしだかれ、フィルートは逃れようと暴れるが、全く意味は無かった。魔王が耳元で、低く囁く。
「ほら……感覚に集中しないか……」
――お前はどこの親父だ!
「やめろっ、ちょ……っ。……う」
しつこく揉まれるうちに、妙な感覚を覚えた。――なんか……気持ち良……。
鏡の中の少女が瞳を潤ませ、頬を染め上げる。とろりと初めての感覚に眩みかけたフィルートは、そのあられもない表情を見た途端、覚醒した。
――誰だ、それは!
フィルートの内心の葛藤など知ったことではないアヴァンの指先は、尖った胸の先を、薄い布の上から撫でる。
「ひゃうっ!」
漏れた声は、とてもじゃないが、受け入れられなかった。高く、甘い声。
――違う! これは僕じゃない!
「ああ、その声はいいな……」
くつ、と耳元で笑われる。その声に鳥肌が立った。
鏡の中で顔を赤くして、涙ぐむ美少女を、アヴァンはうっとりを見つめる。悪戯な指先が、胸の切っ先を摘まんだ。
「ひっ」
ぢり、と電流が流れたような錯覚に襲われ、フィルートは背をのけ反らせた。アヴァンは少し不満げだ。
「もっといい声を出せ」
「む……っ無理、無理、無理!」
「無理ではない……」
低く甘い声が、耳に直接注ぎ込まれ、体が竦んだ。
――なんだなんだ、なんだこれ!
腰に巻き付いていた片腕が、太ももを掴んだ。
「なななな!」
柔らかな肌の感触を楽しみながら、手のひらが脚の付け根まで這い上る。
「や、やめろっ! 僕は……っ僕は、男だぞ!」
耳元に唇をおしつけ、アヴァンは色気たっぷりに笑った。
――ぎひゃあああ!
「馬鹿だな……」
――馬鹿ってなんだ、馬鹿って! 僕は優秀な光魔法使い……。
レースの裾をたくし上げた手のひらが、下着を身に付けていない、無防備なそこに辿りつく。冷やりとした乾いた手のひらを感じた途端、フィルートは恥も外聞もなく、脚を閉じ、叫んだ。
「さわ、触るなああああ!」
アヴァンは可笑しくてたまらない、という声で笑いながら、強引に股間をまさぐった。
フィルートの思考はそこで真っ白になった。
「どうだ、分かるか? もうお前の体は、すっかり女そのものだよ……」
「――――」
鏡の中の少女から、力が抜けた。とん、と胸に倒れ込んだ少女を、魔王は抱き留める。そのこめかみに、口付けが落ちる。まるで愛しいとでも思っているかのような、甘い視線を彼女に注いだ。
「さあ、可愛い俺の花嫁。これからたっぷり、可愛がってやるからな……」
――僕が……。
「……女……」
呆然と呟く。青い瞳に、みるみる涙が浮かんだ。それに気づいた魔王は、鏡の中でにい、と笑った。
「言っただろう……? お前の大事なものを貰うと」
戦闘中に魔王が言った言葉を思い出した。
『お前にとって最も屈辱なのは、男性機能を奪われることか、フィルート』
フィルートはぷるぷると震えながら、声を張り上げた。
「どれだけ鬼畜なんだよおおおおお!」
鏡の中の赤い目が、一瞬ぎら、と光った。
「――この俺を殺そうとした、報いだ――」
どすの利いた、低い声だった。
びくっとフィルートの肩が跳ねると、彼は一転して、妖艶にほほ笑んだ。
「安心しろ。俺は自分の女は可愛がる主義だ。……たくさん……泣かせてやろう……」
――可愛がるんじゃないのかよ!
鏡の中の美少女――フィルートは、真っ青になって、小鹿よろしく震えた。