3
大きな掌が目を覆い隠す。ふわり、と甘い香りが全身を包み込んだ。そして耳元で、優しくも甘い、聞き慣れた声が囁いた。
「……大丈夫だ」
「く……っ」
息が苦しかった。どうしたら良いのか分からず、呻き声しか上げられない。
耳元で、また甘い声が囁く。
「大丈夫だ、フィルート……。俺が、全部やってやるから……落ち着け。もういい。」
しかしその声は、どこか焦っているようだ。
「……」
すう、と呼吸が戻った。息を止めていたのだと、その後で気づいた。だから苦しくてたまらなかったのか、と顔を上げる。動きに合わせて、手のひらが外された。
後ろから自分を包み込み、間近で見下ろしているのは、見慣れた深紅の瞳だ。
フィルートの頬を伝っていた涙が、止まる。
「……アヴァン……」
アヴァンはやんわりと笑んだ。
「よし……いい子だな、フィルート」
――何が、いい子なんだ……?
フィルートは瞬きを繰り返し、視線を正面に向けた。自分を襲っていたルークはどこに行ったのだろう、と思って。
「…………」
フィルートは言葉を失った。
右手にあったはずの壁が、綺麗に無くなっている。『滴の塔』三階の廊下から、城の中庭が良く見える。屋内にあったはずの回廊が、外回廊のように風通し良くなっていた。
左手の各部屋は何とか形を留めているものの、手前の方の数部屋は、壁が破壊され、中が丸見えの状態だ。
フィルートはごくり、とつばを飲み込んだ。
「……えっと……どうしたの、これ……?」
アヴァンは頭上で細く息を吐き出し、ぎゅっと体を抱きしめてきた。
「そうだなあ……とりあえず、お前の魔力を封印したいなあ……」
「…………」
――あ、そうなの……?
フィルートはアヴァンの言わんとするところを察した。つまり、この惨状は全てフィルートの所業らしい。
首筋にアヴァンの唇が触れる。そこは、先程までルークが触れていた場所だが――。
フィルートの肩が、びく、と跳ねた。
「い……っ!」
アヴァンは、キスマークを付けるのではなく、首筋を噛んだ。きり、と皮膚が割けた痛みが走る。
直ぐに触ると、手のひらに血が付いた。
「痛いよ! 血が出てるじゃん!」
睨みつけるが、アヴァンは優しく笑う。
「俺以外の男に触れさせたのだから、これくらい我慢できるな……?」
「――あ、はい……でもあの、抵抗できなかったんです……」
フィルートは瞬時に勢いを失い、身を縮こまらせた。
「あの……ルークは……」
――どこに消えたのでしょうか。
おずおずと体を向き直らせ、正面からアヴァンを見上げる。
アヴァンの気配に怒気が混ざった。怒られても、フィルートにはどうしようもなかったのだが、謝ったほうが良いのだろうか。恐怖を思いだし、瞳が潤んだ。
アヴァンはぐっと一度顎を引き、視線を逸らした。
「ルークは、お前の魔力に弾き飛ばされて、中庭に転がり落ちたから、牢に運ばせた」
「……そう……」
防衛府長が牢に入れられて、大丈夫かな――?
自分のせいで王弟がおかしくなったようなので、大変居心地が悪い。
さわさわと、各所から人が集まってくる声が響き始めた。
「えっと……助けてくれたんだよな……? ありがとう……」
一応、礼だけは言わねば、と頭を下げると、アヴァンは頭を撫でてくれる。
「どうも『滴の塔』の全体に封印魔法がかけられて、深夜二時時点で出入り不可能になった――と、気を回して巡回していたエルゲナから報告が入ってな。お前が破壊した塔の修復に人員が割かれ、ルークに付けていた衛兵の数を二名に減らしてしまったのが悪かった。塔全体を支配されるとどうしても、お前の部屋にかけた俺の魔法が解除されたかどうか、把握できなくなるんだ。悪かった。」
すまなそうに頭に口付けされるが、フィルートはぼんやりと俯いた。
――要するに……僕は、自分が起こしたミスで、自分を追い詰めていたと……。
「まずいと思って、強引に封印を解除するのと、お前の魔力が暴発するのが同時だった。もうちょっと遅かったら、『滴の塔』が無くなっていたかもしれん」
「え、いや、さすがにそこまでは……」
あり得ないだろう、と苦笑したが、アヴァンは真剣な目つきでフィルートを見下ろした。
「自覚が無いと困る。お前の力は、確実に増大している。恐らく光の力を闇の力で塗りつぶして、お前の魔力を変えたのに関係があるとは思うが、前例がないから何とも言えない」
「……うん。こんなことするの、お前くらいだよな……」
光魔法使いを、闇魔法使いに変えよう、なんて普通、思いつきもしない。前代未聞の大技をやってのけた『魔王』は飄々と頷く。
「歴代王でも、俺ほど魔力を持つ人間はいなかったからな。だが、お前の力を封印する方法はあるから、安心して俺の嫁になれ」
「…………力の封印と、嫁の話は脈絡がないと思うな……」
「フィルート」
アヴァンはとても優しくフィルートの名を呼び、華奢な肩を掴んだ。訝しく見返すと、彼はとても美しい、目が潰れそうな輝きを放つ笑みを浮かべた。
「もう、一か月後まで待たず、一週間後に結婚しよう」
「へ……?」
何だって――?
耳を疑った。フィルートは慌てる。
「や、無理だろ。ほら、ドレスとか、列席とか、国民告知とか、いろいろ……っ。お前、王様なんだし……!」
アヴァンは瞳に若干の苛立ちを乗せた。
「……お前に触れるたび、理性が切れそうで、必要以上に触らないよう、自制していたんだぞ。だというのに、お前は阿呆だから、時間があればある程、数多の男共を魅了していく」
「そんなこと……ないよ?」
阿呆でもなければ、誰かを魅了した覚えも無い。
そしてお前が僕に触らなくなったのは、そんな邪な理由からだったなんて――分かってたけど、お前は本当に最低だな……!
「しかも、俺がこんなに我慢しているにも関わらず、お前は間抜けにも他の男に囚われ、俺が後生大事に守ってきた貞操を、いとも容易く奪われそうな状況だと知った時、俺がどんな気持ちだったか分かるか……?」
フィルートはそっと俯いた。
「……わかりたくない……」
理解を拒否したのに、アヴァンはわざわざ教えてくれた。
「俺以外の男にやるくらいなら、殺してやる――」
「――わかりたくないって、言ったのに……っ」
フィルートは両手で顔を覆った。――『魔王』の愛が重い……。
「いい加減、我慢の限界だ。お前が塔に囚われていると聞いた時点で、エルゲナに、各機関へ結婚の日時変更の連絡をするよう、指示した。挙式は一週間後だ。もう待たん。」
「……う……」
――もう手配済みか……。
アヴァンは満足げに続ける。
「ドレスはもうできている。列席も親族のみにするつもりだ。お前の家族にも、報せを放っている。迎え、衣装、滞在、また早まった式によって発生する諸問題も、こちらで全て対応する所存だ」
「う……うう……」
『魔王』の異名は伊達ではない。
アヴァンは、反論する余地もなく、項垂れるフィルートの顎をすくい上げた。
目の前に、蕩ける笑みを浮かべた、極上の美丈夫がいる。この世のものとは信じがたい美貌の『魔王』は、艶やかな声でフィルートに命じた。
「さあ、フィルート……。我が妻となり、健やかなる時も病める時も、俺を愛すると誓え――」
「…………」
――これは……プロポーズなのか……?
愕然と、麗しい自分の婚約者を見返す。
きらきらと輝く深紅の瞳、自信たっぷりにほほ笑む口元、拒絶を許さない、腰に回った太い腕――。フィルートは諦めの微笑みを浮かべた。
――『勇者』になった僕が、馬鹿だった……。
空を映し込んだような、青く澄んだ瞳が、ゆっくりと細くなり、愛らしい珊瑚の唇が弧を描く。フィルートの諦めの笑みは、まるで天界から舞い降りた、天使の微笑みだった。それは図らずも、『魔王』の心を完全に打ち抜いた。
「……はい」
「フィルート……っ」
漆黒の『魔王』は、堪えきれないように勢いよくフィルートを抱きしめると、最大の愛をこめて、自分だけの天使の唇を塞いだ。
唇を重ねるだけかと思ったのに、顎を掴まれ、強引に口内に熱い舌が入り込む。
──まて……っこんなところで、そんなキスするな……!
ネグリジェ姿のうえ、周囲から兵士達がわらわらと集まってきている。足音がすぐ傍まで来ているのに、『魔王』は、これまで我慢したのが悪かったのか、夢中になって唇を貪る。
「……っん、アヴァ……っ、待っ、ん、んんん……っ」
顎と後頭部を押さえられたフィルートは、逃げ場も無く、されるがまま絶技に翻弄された。
これまでのキスなどお話にもならない、情熱的なアヴァンのキスは、瞬く間にフィルートを腰砕けにし、最後には意識を奪っていた――。
この日――『魔王』により生み出された『天使』が、デュナル王国に降臨することが決定した。




