9.蛇足
気が付けば、アヴァンの執務室に運ばれていた。臙脂色の絨毯によく分からない勲章とトロフィーがずらりと並んだ棚が一面にあり、もう一面は禍々しい魔術書がぎっちり詰まった本棚。その向かいに漆黒の塗装をされた三人掛けソファが二脚と一人掛けソファが一つ。窓辺には執務机があり、机の上には作業途中らしい書類が広がっている。
――で、僕はどうしてこんな愛玩動物よろしく抱きしめられているんだ……?
なぜかソファではなく、執務机の方の椅子に腰かけ、フィルートを膝の上に乗せたアヴァンは、白金の髪を甲斐甲斐しく耳にかけ、目じりを拭う。
机とアヴァンに挟まれて身動きが取れない。状況に納得がいかず、不満の眼差しを向けると、極上の笑顔が降り注がれた。
「どうした。もう泣き止んだか?」
「……あー……うん」
極度の恐怖に襲われて泣きじゃくっていた自分を思い出したくもなく、視線を逸らす。
笑顔が甘すぎて恥ずかしいが、ひょっとしたらこいつは優しいのかもしれないな、と考えながら居心地悪く身じろぐと、耳元で楽しそうに呟かれた。
「そうか。じゃあお仕置きはどうしような?」
――やっぱり優しくなんてない。
フィルートは即座に肩を竦め、大きな瞳を上目づかいにしてアヴァンを見上げた。
「えっと……ご、ごめんなさい?」
――どうだ可愛いだろう!? お前の好みだろう!? これで許せ!
アヴァンとの攻防を繰り返すうち、フィルートは自分の顔がアヴァンの好みであることを、よく理解していた。アヴァン本人も、好みの容姿だと言っているくらいだ。
自分の顔を使えば割といなせると学習したフィルートの技は、効果的だった。
アヴァンはぐっと言葉に詰まり、フィルートの顔を凝視する。笑顔でも悪巧みでもない、眉を上げ、目を見張るという、よく分からない表情だ。
何を考えているのか分からない反応に、若干慄きながら、フィルートは小首を傾げる。
「あの、次から気を付けるから、ゆ……っゆ……っ許して?」
――くぅうううう! 女言葉をこいつに使うのは、拷問だ……!
女言葉を使う躊躇いから、どもりがちにお願いしたフィルートを見るアヴァンの顔は、もはや無表情だった。
腰に回った腕に力が籠ったので、フィルートは己の敗北を察した。
――これは、また無理やりキスをされるのか?
アヴァンは輝く瞳で、熱っぽくフィルートの頬を撫で、耳元に口付ける。
「そんなにかわいい物言いをするものじゃない、フィルート。今すぐここで、抱いてしまいそ……」
「わあああああ! やめて! 聞きたくないから! 押さえて! 僕、まだ男に抱かれたくない!」
人の話を聞かない男は、フィルートの華奢な体を抱きすくめ、首筋に顔を埋めた。そして軽いキスを何度も首筋に落とし、最後にきつく吸い上げる。
「いったああああい! やめろ! 馬鹿! 痛いんだよ、それ!」
フィルートは感情のまま叫んだ。殴りたいところだが、両腕を抱き込まれていて身動きが取れなかった。アヴァンはキスマークを付ける時、鮮血のような色になるまで吸い上げる。加減をしろ――この人でなし!
耳元で熱い吐息が漏れた。
「まだ男に抱かれたくないとは……どうしたんだ、フィルート。そのうち抱かれても良くなるということだぞ……?」
ひゅん、と血の気が下がった。
「――違うヨ?」
アヴァンは嬉しそうに頬を歪め、くつくつと喉の奥で笑っている。眼差しは獲物を狙う蛇だ。
「お前が俺に組み敷かれ、泣き叫ぶ様は、さぞそそるのだろうなあ……フィルート……。」
「――……お前は本当に、最悪だ……」
フィルートは死んだ魚のような眼差しで、アヴァンを見るしかできなかった。




