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ガシャアン、とガラスが破壊される音が、続いて聞こえた。
ぱらぱらと石でできた壁が崩れていく。自分の真横、扉の隣に巨大な穴が開いていた。爆音とともに破壊された壁の残骸が、部屋の窓に飛び、窓ガラスを破壊したらしい。
その穴から、のっそりと黒い人影が入ってくる。石の粉を被った肩を払いながら、男は普通の女が聞けば失神ものの、艶ある美声を発した。
「――言葉遣いがなっとらんな、全く」
ルークの手が、さっと離れた。
「え……」
フィルートは呆然と、男を見上げる。
漆黒の髪を優雅に掻き上げ、色香溢れる赤い瞳を眇めた『魔王』が、鬼の形相で自分を睨みつけていた。
「……」
足に絡みついていた蛇の感触が消える。
眉間に深い皺を刻み、射殺しそうな眼差しで自分を見ているアヴァンを認識した途端、フィルートは何も考えず動いた。
「……っ」
漆黒の美丈夫の腕の中に、自ら身を投げ出し、抱きつく。勢いよく抱きついたにもかかわらず、アヴァンは微動だにせず、フィルートを抱き留めた。長い腕が背中に回り、首筋にアヴァンの顔が埋まる。
「……なんだ、可愛いな」
ぼそっと耳元で呟いた内容は無視した。なぜなら、震えまくった体は委縮し、喉は嗚咽で苦しく、言葉らしい言葉が思いつかなかったからだ。
かつてこの男にも似たような目に合わされたが、アヴァンはフィルートの言葉を聞き、応えてくれた。しかしルークは、ただ下卑た笑みを湛えて、嫌がる自分を楽しそうに眺めるだけだ。どんなに嫌がっても、聞いてくれない男よりは、アヴァンの方が数百倍安全に思えた。
「泣いているのか?」
耳元で、優しく尋ねられる。泣き顔を見せるのは屈辱だ。
フィルートは見るな、と言う意味で首を振り、アヴァンの胸に顔を埋める。
耳元で、アヴァンは可笑しそうに笑った。
自分の胸に飛び込んできた少女は、さながら翼の生えた天使のようだった。
白金色の髪が光を反射して煌めき、澄んだ青い瞳から涙が零れ落ちる。散った涙に光が乱反射し、まるで煌めきをまとった天界の姫のようだった。
腕に抱き留めると、愛らしく自分の胸に顔を埋め、顔を見ようとすれば、いやいやと首を振る。
――襲いたい。
ぎら、と欲望が過ぎったが、今はそんなことをしている場面ではないか、と己の弟を見やった。
ルークはいつもの薄ら笑いで肩を竦めた。
「これは兄さん。せっかく結界を張っていたのに……破ってしまわれるとは、随分なご執心ですね……」
フィルートが自分に会いたいと言いだしたので、侍女に許可をだして移動させたが、その侍女が血相を変えて部屋にやって来たのだ。
曰く、フィルートが大臣に浚われたとか。
大臣如きが自分の女を浚えるはずが無かろうと、苛立てば、『六華の部屋』に案内されたという。
大臣の名を尋ねても、侍女は青ざめて答えない。王命で答えさせても良かったが、侍女の立場であれば、のちのち首謀者に消されるのは目に見えていたので、追及はしなかった。
『六華の部屋』はルークの作業部屋だ。ルークは国の警備を担当しているため、部屋に『封視の印』という、覗きと侵入防止の魔法をかけている。たまに侍女や令嬢を連れ込んでいるのは黙認していたが、己の婚約者まで連れ込まれるとは考えていなかった。
割と強力な魔法なため、解除に時間がかかり、ついには中から可憐なフィルートの声が聞こえる始末。苛立ちと、面倒くささが手伝って、部屋の壁を破壊した。
「お前……これはやらんと言っただろうが。手を出していないだろうな?」
フィルートの肩がびくりと跳ねる。
アヴァンの片眉が跳ねあがった。
「おい、何だその反応は……」
今度は腕の中の婚約者に機嫌悪く尋ねる。フィルートの手が、背中でぎゅっと服を掴んだ。――可愛すぎるのも、困りものだ。
思わずふっと笑ってしまう。ルークが詰まらなそうに応えた。
「残念ながら。まだ中にも触れていないところで、兄さんが来たので、キスしかできませんでした」
フィルートが勢いよく顔を上げる。
「おいおいおい! 妙な言い回しはやめろ! お前がキスしたのは目尻であって、唇にすらキスしていないんだからな!」
いら、とアヴァンはフィルートの頭を掴む。自分以外の男を見るだけで、腹立たしい。
「そうか、目じりには口づけを許したんだな……?」
さあ、と青くなったフィルートが、大きな瞳を丸くして、小刻みに震える。
「ちが……ちがう……。僕は……、嫌だったんだぞ……?」
アヴァンは優しく笑む。
「だが、許したんだな?」
ぶわ、と青い瞳から、また涙があふれ出た。
「だって……! だって、足に、黒い蛇が一杯、巻きついて来たんだよお……っ。怖かったから、身動きできなかったんだ……!」
「ああ……蛇」
その一生懸命な訴えに、毒気を抜かれてしまい、頷く。
蛇とはまた妙な表現だ。ルークの『闇の触手』は影を実体化させて自在に動かすという術で、蛇というほど大きくはなく、細い糸が絡み合うように構成されたものだ。ルークは趣味が悪いので、あの術を使って女を狂わせながら抱くのが好きだ。触手の感覚は、ルーク自身の体でも体感できるらしく、大層気に入っているらしい。
恐怖のためか、肌が白くなっている。唇も、紫色に変色していた。
――本当に怖かったのか。
元・男であるフィルートが、女としての貞操をどう考えているのか分からなかったが、想像以上に恐怖を味わったようだ。
アヴァンはプルプルと震え、涙ながらに恐怖を訴える婚約者を慰めるべく、あっさりとその唇に自分の唇を重ねた。
「……んぅ……っ?」
青い瞳が限界まで見開かれる様を、至近距離で見返す。抵抗する前に、口内に舌を滑らせば、体が強張り、瞳が潤む。多くの女を籠絡してきた業を使うまでもなく、フィルートはささやかな手管で頬を染める。ほんの少しいじってやれば、喉から狂おしい声が上がった。
「んん……っ」
それだけで満足されるのは、こちらが物足りないので、やや強引に腰を引き寄せ、舌を深く絡ませると、瞳を閉じて直ぐに腰砕けになってしまった。
いつもならば後頭部に手を回して、更に口付けを深くするのだが、ルークの手前やめた。ちらと視線を走らせれば、敗北を感じるどころか、逆に興奮した眼差しをフィルートに注いでいる。
――まあ、そんなところだろうとは思ったが。
女に慣れ過ぎたアヴァンとルークにとっては、フィルートの初心な反応は楽しすぎて、無茶苦茶に貪ってしまいたい衝動を覚える、小動物にしか見えなかった。
濡れた唇を舐めとり、アヴァンは機嫌悪くルークを睨んだ。
「何度も言うが、これは俺の女だ。絶対にやらんから、お前はお前で、勝手に自分好みの女を探すなり、作るなりしろ」
ルークは眉を上げ、小首を傾げる。
「……おや、やはり彼女は、兄さんの創作物ですか……?」
――煩わしい。
フィルートの性別の変遷に関しては、今後を考えて、極僅かな側近にしか知らせていない。最終的に力でねじ伏せるとしても、禁忌だ何だと騒がれては、面倒だ。
兄の言葉の内実を理解したルークは、にや、と口角を上げた。
「そうですか……。男でも女でもない、妙な反応だと思ったのです……。なるほど……。けれど……それは、兄さんくらいでないと作れないな……」
後半は独り言だ。
内心、当然だと応える。
男を女にするだけでも、禁忌とされる大技だ。一個体の性別を変える魔法は、内臓の作りから手を加える必要があり、細部にわたるまで繊細に集中力を保って魔法を行使しなければならない。更に、性別を維持するために己の魔力を注いだ技は、アヴァンくらいしかできなかった。莫大な魔力を持つ者でなければ、他者に己の魔力を全身に行きわたるまで分け与えられないのだ。
事実上、男を女に変えて、それを留め置けられるのは、この世でアヴァン一人だった。
――だが、知ったことではない。
アヴァンは舌打ちをして、くたりと力尽きたフィルートを抱き上げると、ルークの視界から隠すように背を向けた。
「悪戯もほどほどにせねば、その命、保証はせんぞ」
ルークは背後で、くす、と笑う。
「ええ……わかっておりますよ、兄さん」
――絶対に、分かっていないな。
それは、明らかに次はどうしようかと考えている声だった。




