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アヴァンが出て行って直ぐに、下げられていた侍女――ラティが戻った。まだ窓辺で呆然としていたフィルートを目にとめ、首を傾げる。
「いかがなさいました、フィリア様?」
「なんか、アヴァンが怒ってて怖かった……」
素直に応じると、ラティはちょっと笑いながら、カートを押してソファの横についた。
「まあ、いつも仲睦まじくしていらっしゃるのに、珍しいですね。お茶をお入れいたしますわ。どうぞご休憩ください」
――仲は良くないよ?
内心の突っ込みは忘れず、フィルートはソファにとぼとぼと移動した。魔法で変化した葡萄入りグラスも持っていく。おやつ代わりに食べよう。
ラティは薔薇の香りがするお茶を入れながら、優しく言う。
「どんなお話をなさっていたのか、お伺いしても?」
フィルートは葡萄を口に放り投げ、頷く。物凄く甘い葡萄になっていた。
「や、なんかルークとかいうあいつの弟が、僕……じゃない、私をご所望だとか言って、勝手に怒ってたんだよ。ぼ……私、何もしてないのに」
アヴァン以外の人間の前では、女としてふるまうよう、強要されている。
周知の事実なのか、ラティは驚きもせず、眉を下げた。
「左様でございますか……。あの日、たった一度しかお会いしておりませんのに……、ルーク様のお気持ちは、そのようでございます。あの日は、皇太后様とすれ違うことのないように、とのお言いつけを守ることに気を取られ……ルーク様のご動向までは把握しきれておりませんでした。大変申し訳ございません」
「えっ、いや、ラティが謝ることじゃないよ。というか、皇太后様とすれ違わないようにって……誰の命令?」
ラティは良い香りを漂わせるお茶を、音もなく目の前に差し出した。
「もちろん、陛下でございます。まだこちらに来て間もない、フィリア様のお気持ちを慮り、前国王夫妻との接触は一切禁じると、強く命じられておりました」
「へ、へえ……」
部屋の中にいるのは暇だから、庭でも散歩に行こうと言いだしたのは、フィルートだ。急に提案されて、ラティが少し慌てた雰囲気でもう一人の侍女に耳打ちして、何事か調べた後に庭に出たのだが、あれは皇太后の居所を把握していたらしい。
ちょっと申し訳なく思いながらも、聞き流せない言葉を尋ねた。
「で、あのさ……その、ルーク様のお気持ちって……なに?」
ラティは苦悩の表情を浮かべ、首を振った。
「突然、フィリア様が欲しいと、陛下に直談判をされたのです」
「えっ」
――一回しか会ってないよ?即決?頭、大丈夫?
ラティは頬に手を添えて、溜息を吐き出す。
「陛下が、ルーク様には婚約者がいるだろうとおっしゃれば、既に婚約破棄をされていて、いつでも結婚できるとおっしゃったそうです」
「げっ」
――婚約破棄まで!?
「それはご婚約者様にあんまりじゃないか。突然破談にされたら、不名誉な噂が流れてしまうだろう?」
ラティはきょとんと瞬いて、ふっと笑んだ。
「まあ、それは大丈夫ですわ。今回も、何か月持つのか、と噂されておりましたもの」
「……今回……?」
意味が分からない。ラティは苦笑した。
「他国の姫様には信じられないお話でしょうが、ルーク様は、これまでご婚約者様を十五回、変えていらっしゃるのです。十六歳の頃から、現在まで、長くて一年、短くて一か月で、婚約者様を挿げ替えておられます」
――あり得ねえええ! 王弟だろ? そんないい加減が許されちゃ駄目だろ? 誰も注意しないの? ねえ!
「ていうか、あの人いくつ?」
十六歳から十五回も婚約破棄を繰り返してきた、男の年齢が知りたい。
ラティは可愛く、にこっと笑ってくれた。――わあ、ちょっと好み。
「二十三歳におなりです」
大体、一年に二回、取り換えている――……。
「へ……へえ……えっと、アヴァンは?」
よくよく考えると、アヴァンの年齢も知らなかった。ラティは何を勘違いしたのか、ご安心を、と応える。
「陛下には、これまで一度もご婚約者様はありませんでした。今回、二十七歳になってやっと、ご婚約者様としてフィリア様を指名され、臣下一同、心より安堵した次第でございます。陛下が一人の姫様にご執心されるご様子は、私共も初めて拝見いたしました。」
「あ……そ、そっか」
二十七歳か――僕と十歳も違うんだー……。
それ以外、どう受け取れば良いのか分からず(特に、『一人の姫様にご執心』のあたり)、フィルートは曖昧に笑った。
ラティの頬がぽっと染まる。
「フィリア様の前では、陛下の魔性のお声が、更に威力を増して行く一方で……。私共も、陛下によって防御魔法をかけられておりませんと、失神してしまいそうになります」
「なにその魔法……」
――よもや声だけで失神させるとか、摩訶不思議な事言いださないよね?
胡乱に尋ね返す前に、フィルートは、はっと過去を思い出した。
『勇者』としてここに来たときの、パーティメンバー達。アヴァンの声を聞くなり、腰砕けになっていた。魔法をかけられたのだと思い込んでいたが、もしやあれが普通の反応なのか――!?
嘘だと言ってくれ――!
ラティは困ったように肩を竦める。
「陛下は素晴らしいお姿に加え、莫大な魔力をお持ちなので、お声に魔力が滲み出てしまうのだ、と言われております。特に女性が陛下のお声を聞きますと、身も心も蕩けてしまい、全てを捧げてしまいたくなってしまうという、特殊な体質をお持ちなのですわ。男性も、幼少時代より付き従う近衛兵位でなければ、お声を聞くなり、挙動不審になってしまうのが普通です」
「は……」
全力で、フィルートは叫びたかった。『――はあ!?』と。だが、ラティに悪いので、口をつぐんだ。だってラティは真面目に話しているようだったから。
「フィリア様は、陛下のお声に慣れていらっしゃるご様子で、羨ましいですわ」
――慣れてるわけじゃないよ? でもちょっと待って? あいつ戦ってた時、なんか言ってたよね。
剣を交えながら、フィルートに勝ったら何を寄越すのだとほざいていた『魔王』は、確かに一言挟んでいた。
『いい案だ、フィルート。お前は、俺の声を聞いても動じないようだし』
――声!
そのキーワードに、天啓が降りた。
フィルートの次兄は、アテナ王国一の美声と称えられる男だった。兄の声を聞くだけで、女の子たちは頬を染め、瞳を潤ませ、声を震わせる。
「そっかあ……」
フィルートは、なんだがしょんぼりと俯いた。
――兄貴の変な声に慣れちゃってたから、『魔王』の声も、何とも思わなかったんだよ……。
兄の声に慣れてさえいなければ、まだ女体化されるだけで、完全な闇魔法使いにまで変えられなかったのではないだろうか。そう思うと、兄を呪いたくなった。
「ちょっと母国に戻ってもいいかな……」
――兄を倒しに。
「まあ、フィリア様! いくらルーク様の『闇の触手』が恐ろしくとも、それだけはおやめください!」
フィルートの目尻に、じわ、と涙が滲んだ。――『闇の触手』ってなんだよお……。
恐ろしすぎて、もはや尋ね返す勇気もない。
「現在、フィリア様のお体には、城外に出ると同時に、心の臓を破壊する術が施されております……!」
「――――」
フィルートは目を見開いて、両手で頬を押さえた。すう、と血の気が下がって行く。
怯える眼差しを向けた先――ラティは、とても真剣な顔で拳を握った。
「陛下は、フィリア様を片時も離したくないとお考えなのです。お手元からいらっしゃらなくなるくらいなら、命を奪うと断じられるほど、フィリア様を愛しておられるのです……!」
フィルートの瞳に涙が浮かんだ。
「……そんなのは…………愛じゃない……」
――『魔王』は、僕をどうしたいんだ……。




