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潤んだ瞳で、上目づかいに『お願い』と言ったフィルートの顔が、最高に好みだったので、このまま抱いてやろうかと思ったが、何とか踏みとどまった。まだ女となった自分を受け入れ切れていない彼女に、手を出すのは早計だ。
アヴァンは少しだけ彼女から離れ、向き合った。大きな青い瞳が期待に輝いている。
「…………」
可愛いな、と言葉を忘れて見入っていると、徐々にフィルートの顔色が強張って行く。
「な、なんだよ……」
自分を守っているつもりなのか、両腕で上半身を抱きしめ、ややのけ反る。良く見る防御姿勢だが、毎回いい感じに胸が寄り、こちらの理性を試しているのか――? と苛立ちを覚える。しかもその姿勢では、一番重要な場所は守れていない。
「……いや」
アヴァンは一つ首を振って己の煩悩を払った。
「じゃあ手を出せ」
「うん」
素直に両手をこちらに見せる。その手を掴み、魔力の根源となる、闇の力を体の中から引き寄せ、初歩の魔法――『闇の灯』を作り出した。手の上に小さな炎が揺らめく。
どうせ闇魔法を使いこなせるようになって、アヴァンやルークに対抗しようと考えているのだろうが、魔法を使えるに越したことはない。実際、自分がいないときにルークに襲われたら、時間稼ぎくらいにはなるだろう。
「うわ……」
フィルートの腕が強張った。顔を歪めるフィルートをちらと見やる。
「感覚は違うだろうな。光魔法は空に太陽が無いと使えないが、闇魔法は常に使える。光魔法を使うとき、お前はどういう感覚で力を引き出していた?」
「……え、なんだろ。頭のてっぺんから光を吸収する感じかな」
ぼんやりとしたイメージで応えられたが、アヴァンは頷いた。
「ではその逆をイメージするんだ。地の底から力を引っ張り上げるよう、意識する」
一度手を放し、もう一度自分がしたのと同じようにやれ、と言うと、フィルートは眉根を寄せて唸る。
「ううううう……っお!」
アヴァンは眉を上げた。フィルートの手の中に炎が生まれたのだ。アヴァンが作った炎よりも脆弱な灯だったが、魔力の使い方も知らない、赤子同然の人間が簡単にできるような業ではない。
フィルートの顔に、華やかな笑顔が浮かんだ。
「できたあ! できたぞ! すごい! 僕天才かも!」
「……そうだな」
「え?」
同意されると思っていなかったのか、フィルートはきょとんと瞬く。その顔も可愛いな、と思いながら、アヴァンは淡々と応じた。
「上出来だ。闇の力の使い方を全く知らない人間がしたとは思えない。まあ、光魔法使いではトップだったのだろう? 闇魔法もそこそこ使えるようになるかもしれないな」
――といっても、大技を教えるつもりはないが。
褒められて動揺したフィルートは、頬を真っ赤にして、ぽん、と手の中の炎を消した。もじもじと強烈な愛らしさで視線を落とし、話を逸らす。
――襲うぞ。
「えっと、お前達は『闇の力』って言うんだな。力の根源は『影』なんだろう?」
「そうだ。影の中に溜まる闇の力を利用して魔力に転換する。光魔法使いは、太陽の加護が無ければ力を使えないが、我々は影さえあればいつでも力を使えるから、お前達が大挙して押しかけようとも、こちらが勝つのは時間の問題となる」
「なんで?」
ぽかんと口を開けて聞き返された。――あほ面だな。
アヴァンは逃げ出した侍女が放置したカートから、ワインボトルを取り上げ、グラスに注いだ。
「まず、影さえあればどこにでも出現できるから、奇襲を仕掛けるのが容易い」
「ああ……」
フィルートが物欲しそうにグラスを見るので、カートから新しいグラスを取り出して注いでやると、ちょっと嬉しそうにした。――子供か。
「そして、光魔法使い達は、太陽が昇っている間しか力を使えない。だから夜間になると無防備だ。この夜の間に闇魔法使いは光魔法使いを殲滅できる」
「……」
ごくり、とワインを飲み下したフィルートの顔が、少し白い。
アヴァンはつい、口の端を上げて笑った。
「光魔法使いは本当に呑気だな……。考えずとも分かるだろうが。まあ、閉鎖的な国だから、おおかた我々闇魔法使いも、昼間は魔力が弱まるだとか、夜中は光魔法使いと同じく力が使えないに違いない、だとか思っていたんだろう?」
「…………」
ぎく、とフィルートの頬が強張る。素直な反応だ。
「闇魔法使いは、アテナ王が思う程、弱くない。お前達が呑気に寝こけている間に、光魔法の魔術書を全て入手し、魔術の解読を済ませたのは、十三代前のアテナ王の時代だ」
「建国と同時かよ!」
下らない、とアヴァンは前髪を掻き上げ、ソファに身を沈めた。フィルートは可愛らしくソファに両手をついて、身を乗り出している。その胸に視線が吸い寄せられた。
――胸を寄せるのが癖になったのか?
アヴァンは自問自答した。恐らく胸を持った経験がないので、意識していないに違いない。
「そうだ。だがこれまで一度も、我々はアテナ王国を占領しようとしなかった。まったく、何もしていないにもかかわらず、『魔王』などと蔑まれ、一方的に目の敵にされては敵わん」
フィルートは口を尖らせる。
「じゃあ、なんで占領しようとしなかったんだよ……。お前らにとっては、簡単なことなんだろ?」
アヴァンは目を据わらせた。
「別に。デュナル王国はもう十分豊かだから、他人の領土を欲しいとは思わないだけだ」
これは歴代デュナル王に言えることだった。世界を二分する広大な領土を持つアテナ王国とデュナル王国。近隣に小国は複数あるものの、既に広大な領地を持っており、経済力・軍事力共に潤沢した状態だ。これ以上の領土を増やして政務が増えるのは面倒だし、別に世界征服なんて好みでもないので、現状に甘んじている。
そう言うと、フィルートは愕然と目を見開き、口を開けた。
「…………じゃあ、じゃあ……僕たちの今までは……」
建国当時からデュナル王国を目の敵にしていたアテナ王国の民には申し訳ないが、アヴァンは事実を淡々と述べる。
「無駄足だったな。光魔法使いは闇魔法使いに絶対に勝てないし、デュナル王国はアテナ王国を占領する気も更々無い」
フィルートの顔が青くなり、唇がぷるぷると震える。――お、泣くのか?
アヴァンは嬉々としてフィルートの顔を覗き込んだ。
青い瞳にじわりと涙が滲む様は、澄んだ湖面に、新たに水が張られていくようだ。幻想的と表現しても良いほど、美しい。
フィルートの可憐な声が、弱弱しく吐き出された。
「ぼくの……僕の体まで……かわっちゃったのに……」
――弱ると話し方まで可愛くなるのか。
アヴァンは無慈悲にも、にやりと笑んだ。
「そう嘆くな。お前はこの俺が、責任を持って一生大事にしてやる。……正妃としてな」
「いやだあああああ!」
これで何度目になるのか分からない、叫び声をあげる。青い瞳から、ぼろ、と涙が零れた。
「おい……」
アヴァンは少し動揺した。フィルートは、これまで何度も涙ぐんでいたが、本格的に泣くところまでいかなかったのだ。(貞操を奪われかけた時は、本気泣きだったが。)
グラスを机に戻し、白い頬に零れ落ちる涙を拭ってやる。
細い眉が八の字に垂れ下がり、青い瞳は深い色に染まって涙を零し続ける。愛らしい珊瑚の唇からは、恨み言が漏れた。
「ひどい……ひどいよ……。僕の人生、一体何だったんだよ……っうっく……」
若干十七歳にして中佐まで上り詰めたのだから、人並み以上の努力を己に課してきたのだろう。筋肉がどうのと文句を言っていたのを思い出す。
魔力の訓練においても、過酷を極めなければ、魔法使いのトップに立つことは出来ない。
ほっそりとした二の腕を掴み、その目尻に口付けると、びくっと肩が揺れた。
「泣くな」
「やめろよぉ……。僕を、僕を女扱いするな………!」
掴まれていない方の腕で、顔を覆う。泣き顔を見られるのは、フィルートにとって恥らしい。
フィルートの視界が覆われたので、アヴァンはつい、感情のままにやついてしまった。
――こいつの泣き顔は、本当にそそる。
そのドレスを引き裂いて、細い首筋にむしゃぶりつきたい。
情欲に染まる眼差しを降り注ぐと、見えていないはずだが、フィルートの体が強張った。
「……お前今、なんか最低なこと考えただろ……」
おそるおそるフィルートが顔を上げた瞬間には、アヴァンは顔を真顔に戻していた。
「なんの話だ。まあ、お前に申し訳ない事をしたとは、微塵も思っていないが」
「鬼畜野郎!」
無意識だろうか。小さな手を胸元で握り拳にする様は、女そのものだ。
アヴァンは、ふう、と艶っぽく吐息を吐き出す。その顔に浮かんだ笑顔は、妖艶過ぎて、普通の女が見たら卒倒するほどの威力があった。
だがフィルートは、怯える眼差しを返すだけだ。何故かアヴァンの色香溢れる声も、艶ある表情も大して効果がない。
――そこが良いのだが。
「罪のない人間を殺しに来たのだから、それくらい我慢しろ」
「僕は生きるか、死ぬかのつもりで来たんだ! 女になりに来たんじゃない!」
もう涙は止まり、今度は反抗的な眼差しがアヴァンを睨んだ。
――良い反応だ。
アヴァンは抑えきれず、にやにやと笑ってしまった。
「いいじゃないか。別に拷問にかけるわけじゃない。俺の妻として贅沢な生活ができるうえ、女の体の喜びを知れるんだぞ。殺人未遂犯への待遇としては、破格だろう。安心しろ、俺は閨では優しい。……泣き叫ぶまで、女の快楽を教えてやろう」
――ああ、今すぐにでもこいつの体を抱いてしまいたい。
身の危険を覚えた少女が逃げようとする寸前、その腰を捕らえ、首筋に顔を埋める。
「十分、拷問だ!」
「じゃあ、我慢しろ」
「鬼! 鬼畜! バカ! 離せ!」
全力で抵抗をしているのだろうが、アヴァンはあっさりと彼女の両手首を片手でひとまとめにし、頭上に持ち上げる。
「ひ……っ」
無防備になった顔を見下ろすと、恐怖に慄いた美少女がそこにいた。アヴァンは思わず、唾を嚥下した。
「やめろ、獣!」
「そうだな。お前も元は男だ。俺が何をしたいのか、よく分かるだろう」
言いながら耳元に吐息を吹きかけると、愛らしい悲鳴が上がった。
「助けて神様ああああ!」
打てば響くフィルートの反応は、アヴァンの人生において初めての経験だった。
会話ができる喜びを、アヴァンは毎夜噛みしめる。フィルートに触れ、言葉を交わすことが楽しくてたまらなかった。




