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花の葉を踏みしめる音に顔を上げたフィルートは、黒い巨大な陰影を視界に納めるなり、身構えた。
――また来たのか、魔王!
ぎん、と睨みつけた男は、視線が合うなり、柔和な笑みを浮かべた。
「こんにちは、フィリア姫」
――姫じゃねえよ。
突っ込みは内心に押しとどめ、フィルートは男の顔を二度見した。アヴァンに似ているが、アヴァンではない。
長い黒髪を一つに束ね、頬に掛かる前髪は中央で二つに分けている。凛々しい眉にやや垂れ目の赤い瞳。高い鼻筋と形良い唇は、アヴァンと瓜二つだった。
身長と、がっしりとした体格もアヴァンと似通っている。黒い軍服は、肩と襟首、袖口に金色の装飾が付いており、胸には勲章が複数ついていた。将軍クラスの人間だろう。
一緒にお茶を飲んでいた侍女――ラティが慌てて立ち上がり、礼を取った。
「失礼を致しました」
勝手に寄って来たやつに失礼もくそも無いとは思うが、身分が上の人間ならば仕方がない。フィルートも立ち上がって挨拶をしないといけないのか、と思ったところで、男はにこやかに手を振った。
「ああ、良いんだ。そのまま話を続けなさい。フィリア姫も、お気になさらず」
「……」
誰なんだよ、と目で問うと、男は片膝をつき、フィルートの手を取る。
「私は、ルーク・デュナルと申します。以後お見知りおきを、兄上のご婚約者様」
そしてちゅ、と音を立てて手の甲にキスされた。
――ぎゃあ! 音立てるなよ、気持ち悪いだろ!
ざわ、と全身に鳥肌が立った。しかも少し濡れた。フィルートは、さっと手を引きぬき、挨拶を返した。
「こんにちは……ルーク様……」
上半身が若干のけ反ってしまったのは、本能のなせる業だから、どうしようもない。そして見えないように、背中で手の甲を拭った。
ルークは眉を上げ、まじまじとフィルートを見下ろす。
アヴァンのような、今にも取って食いそうな野獣の眼差しではないが、何かを見透かそうとする目つきだ。
「……フィリア姫は、社交界でのご経験は?」
「……えっと?」
質問の意味が分からない。首を傾げると、彼はくす、と笑った。女が見ればぽっと頬を染めそうな、優雅でいて包容力のありそうな笑い方だ。――むかつくぜ。
「いえ……もの慣れないご様子でしたので、深窓のご令嬢かと……」
フィルートは眉を吊り上げた。つまり、自分の態度が洗練されていなかったと言われたのだ。こいつが手に口付けを落とせば、全ての女性が嬉しそうに微笑むに違いない。間違っても、鳥肌は立てなかっただろう。
――女が全員、お前にキスされりゃあ頬を染めると思うんじゃねえ!
フィルートはぷい、とそっぽを向く。
「それは申し訳ありませんでした。僕と話しても面白くないでしょうから、どうぞお気遣いなく、お仕事にお戻りください!」
「……僕……?」
フィルートは、ばっと口を両手で押さえた。
――うおおおお! しまったああああ! アヴァンに犯されるううう!
フィルートは、何度かデュナル王国から逃走を図っていた。しかし毎回、捕まる。
それも毎度、ご丁寧にアヴァン自らが捕まえに来る。自分の影から、黒い衣装に赤い瞳ばかりが鮮やかな『魔王』が現れる様は、戦慄の光景だ。
そして、肉食獣の目をしたあいつに、お仕置きをされるのだ。
一回目は口付けだけで力尽き、二回目は口付けとあり得ない手管で息も絶え絶えとなり、三回目は貞操が危うかった。
そして毎回、約束をさせられる。
一回目はドレスを着る事。(足が心もとないので、侍女の目を盗み、乗馬服を着ていた。)
二回目はアヴァンの婚約者ではないなどと、口が裂けても言わない事。(城ですれ違う兵に、ご婚約おめでとうございます云々、とさんざん言われ、キレた。)
三回目は人前では、一人称を『僕』から『私』に変えるように命じられた。
珍妙な生き物でも見ているかのように、ルークの瞳が輝いている。
「……フィリア姫は、独特な話し方をされるのですね?」
ごくり、とフィルートは唾を飲み込んだ。
――しっかりしろ僕。ここは正念場だぞ……微塵も言葉遣いを間違えてはいけない! 僕の貞操は、僕が守る……!
すっと背筋を伸ばし、フィルートはおっとりと笑んだ。青い瞳は僅かに潤み、白桃の頬はうっすらと染まり、珊瑚の唇は光を反射して、果実のようにぷっくりとしていた。
背景には薄紅の薔薇の花園。それはまるで、眩い妖精の笑顔だった。
ルークが息を飲む。
「申し訳ございません……。私、幼い頃から郊外で過ごしてきたもので……恥ずかしくて、強がりを申してしまいました。どうぞお忘れください、ルーク様」
完璧なセリフだった。
額にうっすらと汗が滲んだ気がする。
ルークはしばらく呆然とフィルートを見おろし、ぼそりと呟いた。
「……欲しい」
「――え」
フィルートの笑顔が、そのまま強張る。
――今、聞いてはならない言葉を、聞いた気がする。
ルークの目が、最近別人がよくする、不味い感じの色に変わっていた。ぎらぎらと獲物を捕食せんとする、猛禽類の目がそこにあった――。
ルークは、膝の上に重ねていたフィルートの片手を掴んだ。フィルートの肩が跳ねる。
赤い瞳が、らんらんと本能を湛えつつ、それを隠すべく、優しげに笑む。女相手であれば通用したであろうその小技は、男だったフィルートには効かなかった。
――ひいぃい!
「……郊外にお住みだったのでしたら、突然このような都心へ招かれ、さぞお心細い事でしょう。ましてや貴方は、アテナ王国の方です。よろしければ今度、デュナル王国の街をご案内いたします」
「いいえ……っ! せっかくですが……っへ、陛下に……そのっ、外には出かけぬようにと……、申し付けられておりますので!」
嘘ではない。今度、勝手に城外に出たら絶対に許さないと言われている。
ルークは軽く眉を上げ、口の端を上げた。
「へえ……あの兄さんが束縛などするようになったのか……」
――違うよ! そういう意味の束縛じゃないよ!
明らかに勘違いをしているが、否定もできず、フィルートは俯く。
伏せた長い睫を見下ろした赤い目が、そのまま胸元まで移り、物欲しげに煌めいた。胸元には、赤い花びらのような、付けたばかりと分かるキスマークが付いている。
「……しかも、所有権を主張するなんて……」
「はい?」
言っている意味が分からず、顔を上げた。目の前にいた男は、いつの間にか焦点の合わない位置まで顔を寄せていた。
「ぴ……っ!」
口から変な音を漏らしたフィルートの頬に、他人の唇が押し付けられる。大きな男の手が、情事を彷彿とさせる、しっとりとした動きで、耳の裏から首筋を撫で下ろした。
――やめろおおお!
「……っ」
本能的に体を横にずらして、手から逃れると、ルークはにっこりと笑った。
「失礼。あまりにも美しい肌だったもので、つい口付けを贈ってしまいました」
「ななな」
あり得ない――初対面の婦女子の頬に、許可もなく口付けるなんて!
内心憤怒しながら、しかしフィルートの目は、明らかに怯えた。アヴァンにより、既に男に力ではかなわない、という刷り込みが完了していた。
彼はフィルートの表情を楽しげに見下ろすと、くす、と笑って優雅に立ち上がった。
「それではまた、お会いできるのを楽しみにしていますね……フィリア姫」
「……」
フィルートは応えられなかった。ルークが背を向けた刹那、体はがくがくと震え、顔面から血の気が失せる。姿が見えなくなった頃、フィルートは震える声を漏らした。
「ここここ……怖いいいぃいい!」
内心に留めるべき言葉が、口から洩れる。空気となって成り行きを見守っていた侍女――ラティが慌てて傍らに跪いた。
「フィリア様……! だ、大丈夫ですわ。ルーク様は陛下の弟君ですもの。何も怯える事なんて……っ」
そこでラティは口を閉ざした。フィルートはゆっくりと、ラティの顔を見上げる。
――どうしてそんな顔するんだよおおお。
ラティは、指先で口元を押さえ、あさってを見ていた。
「ラティ……何……その間……」
尋ねると、彼女は取り繕った笑顔を浮かべた。
「あ! いいえ! 何でもございませんわ! 何かあっても、陛下がお救い下さいます! フィリア様は、陛下にとても愛されておりますもの……!」
――襲われるのを前提に話さないでくれよ……。
デュナル王国の生活は、涙がちょちょぎれる毎日だった。




