美味しいはなし
足元に転がるぶどうの魔王について、私は「放置するのが一番いい」と考えた。
しかし現実がそれを許さない。
母は、「この籠に溢れる程の山ぶどうをよろしくね」と言ったではないか。
一粒の山ぶどうも無駄には出来ない。
私は指先でぶどうの魔王をつまんで、目が合う前にぽいっと籠の中に放り込んだ。
さらに既に籠に入っていたぶどうでヤツを埋める。なんだか「ゆう、ひ、はまっ……」とかモゴモゴ言っていたが、聞こえない聞こえない。
再び収穫マシーンと化して、木に下がっている普通の山ぶどうを入る限り全て籠に納めた。
こんもりと山になった背負い籠を見て、流石の母もこれには文句を言ったりはしまいと一人頷いた。
「うっし。帰るべ!」
足取りも軽く山道を歩き、家路へとついた。
ぶどうの魔王の事なんか綺麗さっぱり忘れてね!
「ただいまー!」
背中は重いが心は軽く、洗濯物を干していた母に手を振った。
山ぶどうの小山が見えたのだろう、母も仕事の手を止めて手を振り返してくれた。
「お帰りなさい。桶は出しておいたから、洗ってそこにあけてしまってちょうだい」
「りょうかい〜」
家の前には井戸があって、毎年使う大きな桶がそこに二つ並んで置いてあった。
「あ、そう言えば父さんは?」
一方の桶に背負い籠の中身を出しながら、私は親父の方のぶどうが気になった。一度に作業してしまえば手間は一回で済むからだ。
洗濯物干しを再会していた母さんは、シャツを広げようとした姿勢で手を止めた。
宙をしばらく眺めると、唇の片側だけ引き上げて微笑んだ。
「どうせ山ぶどうが足りなかったのよ。ふふっ、今日の夕食は二人かもしれないわね……」
それってつまり、親父は籠がいっぱいになるまで帰っては来ないと言うことでしょうか?
母がその問いに頷く事ははっきりしている。
だから私は黙って桶に水を注いだ。
大量のぶどうの中から房から外れた粒が浮力でぷかぷか浮いてくるが、そこは特に気にもせずにじゃばじゃばと掻き回した。要は汚れが落ちれば良いのだから。
「ごぷぅ……。げほっげほっ」
そんな嫌な感じの声が聞こえたかと思うと、桶の端にぶどうが一粒張り付いていた。正確に言うと、細い両手足を駆使してしがみついていた。
「んしょんしょっ」
どうにか桶の縁によじ上ると、ヤツは立ち上がり、私を指差した。
「あんまりじゃないですか、勇者様! 狩りもせずに籠に突っ込んで下敷きとはっ。山ぶどうの魔王なのに、この山ぶどうどもの頂点に立つ者なのに、家来どもに圧死させられるところだったんですぞ!」
あ、一応魔王って頂点にいたんだな〜。と感心していると、ぶどうの魔王は地団駄を踏み始めた。
「幾ら聖剣で狩られ(斬られ)ないと死なないからって、あんなのあんまりです!」
「えっ、魔王って聖剣じゃないと死なないの?」
初耳だ。
すると、山ぶどうの魔王は点のようだった目をぎょるんっと大きくした。
気持ち悪っ!
「ご、ご存じなかったと!?」
突然大きくなった目にかなり引きながら、私は頷いた。
「うん。だって父さんは何も言ってなかったし」
「で、では我ら魔王の事も何もご存じないと……」
「は? なんか、知っといた方が良い事でもあるの?」
ぶんぶんとヤツは、首が無いので体全体を上下に振った。反動でよろけた。
あ〜あ、また桶に落ちるぞ。と思っていると、私の背後から母が顔を覗かせた。
「なーに、アイザ。遊んでる暇があるの?」
まあ、一人で桶の横にしゃがみ込んでいるようにしか見えないですよね。
首だけで振り返ると、そんなに怒ってもいないようで、母は腰に手を当てて立っていた。
「あのさ、母さん……」
「センティス国『最後の鉄槌』……!!」
魔王について何か知っていないかと母に問い掛けようとした私の声を遮る様に、ヤツは母の二つ名を叫んだ。
対して母は、片眉を上げてソレを見下ろした。
「はあ〜ん。今年は魔王が出る年だったのね」
どうりで最近アイザが聖剣を持ち歩いていた訳だ。と呟く母。
私は一体どっちに驚けばいいのだろうか……。しばし悩んで母を優先する事にした。
「母さん、魔王の事知ってるの?」
「当たり前じゃない。ロイド村じゃ、結構有名よ?」
全然全く知らなかったんですけど!
訴えると、母はしてやったり顔をした。
「だって、アイザには秘密ねって皆で謀ってたんだもの。いいお顔」
そう言って、私の顔をつんっと指先でつついた。
これって母に村を率いてからかわれてたって事だよね? ……人間不信初めていいですか?
母と話す気の無くなった私は、ぶどうの魔王に振り返った。
すると、ヤツはだらだらと大汗をかいて、母を見上げていた。それは、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
余裕の笑みでぶどうの魔王を見下ろす母とは正反対だ。
っていうか、母さん、今、「美味しそう」って口パクしませんでした?
「あ、あのさ……」
あまりの動揺っぷりに戸惑いがちに声をかけると、ブリキの人形のようにぎしぎしとこちらを向いた。
「な、何か?」
「母さんの事知ってるの?」
「おおおおおおおおお! 当たり前じゃないですか! センティス国『最後の鉄槌』の異名は裏山に鳴り響いておりますよっ」
吹き出す汗はとどまる事を知らない。
そしてよく見ると、ヤツの体が徐々に小さくなっている。と、言うより、しわしわと皮に皺が寄っていくのだ。
その汗、果汁なんじゃ……。
「やーだ。しわしわの魔王なんてカッコ悪いわよ〜」
暢気な母の台詞に、ついうっかり「誰のせいですかっ」とツッコミそうになって、何とか黙る事に成功した。
危ない危ない。向こう一年間、「母さん、何にも悪く無いわよねぇ?」って根に持たれるところだった。
「な、なんと……」
母の台詞に己を省みた山ぶどうの魔王は、がばっと手近なぶどうに飛びついた。
がぶりと噛み付くと、ちゅうちゅうと吸い上げ、再び桶の縁に立ち上がった。
その実は先程よりもぷりぷりとして、はち切れんばかりだ。
山ぶどうの魔王は、抜け殻の様になった同胞の皮をその手に握り、にやりと笑った。
……口元から、たらりと赤いものが滴った。
もちろん、ブドウ果汁百パーセントです。
ようやく魔王らしい行為が……?