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スリル

「最近抜け毛が気になるんだ」

就寝直前、夫が言った。私は顔を向けないで、あらそうどうしたのかしら、と言った。夫は口を閉ざし、そのまま電灯は切られた。私はがばと布団を被り、時計の耳障りな周期的リズムや街道を走る車のエンジン音、すべてを遮音した。

「なぁ、俺のハブラシどこだ?」

 朝、夫が言った。私は眠気が覚めないでいる眼を擦りながら、さあ私は触ってないから、と言った。夫は、怪訝な顔をして去った。私はベッドから起き上がり、朝食をつくろうとキッチンへ向かった。

「新聞とってくれ」

 食事中、夫は言った。手を差し出す夫に気づかないふりをして、私は無言で新聞を夫の目の前に置いた。夫は何も言わないでそれを手に取り、読み始めた。私はソファに座って、携帯ゲームの続きを始めた。

「行ってきます」

 夫は言った。私はいつものように、はい行ってらっしゃい、と言った。しかし、夫が行ってから数十秒後、私がその文句を言ったかどうかを忘れてしまった。まあ、そんなことどうでもいい。私は携帯ゲームを一時中断して洗濯物を干し始める。

 ひと通りの家事を終えて、昼時、私はソファに座って、テレビを点けた。相変わらずワイドショーでは陽気なタレント達が表情豊かに為になる情報を発信している。番組は何度も変遷した。そのたびに私は見ているがやがて飽きが来る。何も面白いことはない。面白く思うことさえ忘れている。私の情緒を刺激するもの、表情筋に笑うよう引きつらせる電気信号、無い、そう今までは。

 私は風呂場へ行った。風呂を洗い、お湯を沸かし始める。そこで、夫の愛用するシャンプーへ視線を向けると、罪悪感が波のように私の体表を駆け巡る感覚を覚えた。しかし、今やその罪悪感さえも快感へと昇華させてしまう。傍らに置いていた脱毛剤を五滴入れた。同時に笑気がこみ上げる。こんなこと、学生時代以来だ。あの時は、同級生を集団でいじめていたんだ。今思うとかわいそうだと思っても、当時の対象の顔を思い出すと興奮する。罪の意識、自分が悪いことをしているのは百も承知だ。でも、これ以外にこの牢のような空間で、欲求不満を晴らす方法がない。携帯ゲームでは味わえないリアリティがあるのだ。まるで、万引き犯の動機だとも思ったことがあるけれども、この先も止められない、と思う。むしろエスカレートするだろう。シャンプーのキャップをきつく閉めながら、人事のように私は考えた。

「ただいま」

 夫が帰ってきた。私は自然を装って、お風呂沸いてるわよ、と言う。いつものことだバレやしない。夫はありがとうと一言。夫はスーツを脱ぎながら風呂場へ向かう。私はその後姿、そして頭頂部を見やる。夫の頭は順調に薄くなっているようだ。それはいつも注意してみている私にしかわからない微細な変化。効能を目の当たりにして、私は昂揚する私を実感する。しばらくして風呂場から聞こえてくる音がある。洗面器をお湯へ突入させるときの破裂音が聞こえる。お湯がたっぷり入った洗面器を持ち上げるときにいくらか零れ落ちては水音がたつ。そして、夫は何も知らずに脱毛剤シャンプーのついた頭を流して驚愕するだろう。私はそれを想像すると可笑しい。夫の悲鳴が聞こえたらますます可笑しいのに、と思う。


「やっぱり抜け毛が気になるな、病院へ行こうかな」


 就寝時間、夫は言った。私は、どうしたのかしらね、と言った。夫はそれ以上は何も言わず、電灯を消した。私は布団をがばと被り、お前が悪いんだお前が悪いんだと小声で言いながら、ほくそ笑んでいた。



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