現実逃避のために小説を書いていたら、現実の問題が増えました。~お願いだから報酬は五百円にしてください!~
私には、休みがない。
いや、正確には休日はある。勤務先は週休二日制だし、有給休暇だって取得できる。労働環境としては、決して悪い会社ではないと思う。
ただし、それはあくまで会社の話である。
「ママー! お茶こぼしたー!」
「ママ! あれどこー?」
「ねえ、お腹すいた!」
休日の朝。目覚まし時計よりも正確に始まる子どもたちの呼び声によって、私の一日は幕を開ける。
朝食を作り、洗濯機を回し、散らかった部屋を片づける。ようやく椅子に座れたと思えば、今度は誰かが何かをこぼすか、何かをなくすか、何かを要求してくる。
もちろん、子どもたちはかわいい。かわいいのだが、それと疲れないことは別問題である。
平日だって似たようなものだ。
現在、私は育児のために時短勤務をしている。
当然、勤務時間は以前より短い。だが、だからといって仕事の量まで都合よく減ってくれるわけではない。限られた時間で仕事を終わらせ、退勤すれば今度は母親としての仕事が待っている。
夕食の準備にお風呂、翌日の支度。やることはいくらでもある。
……一日が二十四時間しかないことに、そろそろ異議を申し立てたい。
すべてを終え、子どもたちを寝かしつけたら、ようやく自分の時間。
……そんな生活に憧れたこともあった。
現実は違う。
子どもたちと一緒に、私も寝てしまうのだ。
しかも、朝までぐっすり眠れるわけではない。
夜泣きで起こされ、布団を蹴飛ばした子に掛け直し、気づけば誰かの足が顔の上に乗っている。ようやく眠り直したと思えば、今度は別の子が寝返りを打ってこちらへ転がってくる。
一晩に四回、五回と目を覚ますことも珍しくない。
睡眠時間だけを見れば、そこそこ眠っているはずなのに、朝起きると疲れが取れていない。
鏡を見れば、今日も目の下には立派なクマが鎮座している。
(……あなた、そろそろ家賃払ってくれない?)
そんなことを考えながら、クマを隠すためにコンシーラーを塗る。もはや私の顔の一部と言っても過言ではない。
そんな私にとって、唯一まとまった自由時間になり得るのが、会社の昼休みだった。
昼食を済ませれば、残りの時間は好きなことに使える。
……使えるはずなのだが。
「ごめん、これ急ぎでお願いできる?」
そう言われて、昼休みが消滅する日もある。
もちろん仕事だから仕方がない。仕方がないのだが、私の貴重な自由時間は、今日もあっけなく失われた。
つまり、私の趣味に使える時間は、昼休みが無事に取れた日にだけ発生する、非常に不安定なものなのである。
そんな限られた時間の中でも、私にはどうしても続けたい趣味があった。
小説を書くことである。
◇
もともと、私は小説を読むのが好きだった。
特に好きなのは恋愛小説で、互いに想い合っているのに、ちょっとした誤解からすれ違ってしまう二人の物語には目がない。
そして、現実ではお目にかかれないような、容姿端麗、頭脳明晰、地位も財力も兼ね備えた、いわゆるスーパーダーリンが登場する物語も大好きだった。
もちろん、わかっている。
そんな都合のいい男性が、現実にそうそう存在するはずがない。
少なくとも、私は見たことがない。
仮に存在したとしても、私の前に突然現れて、甘い言葉を囁いてくれることなどないだろう。
そもそも、そんなことになったら困る。
こちらはすでに家庭を持っている身なのだ。
だが、物語の中なら話は別である。
仕事のことも、夕飯の献立も、終わらない洗濯物のことも忘れて、架空の世界で繰り広げられる恋愛に一喜一憂できる。
現実では、言いたいことがあるなら直接言えばいいと思う。だが、小説となれば、両片思いの二人には存分にすれ違っていただきたい。
(そこで誤解するの!? いや、でもその勘違いは仕方ないかも!)
そんなふうに、登場人物たちの恋愛に勝手にやきもきする時間が、何よりの楽しみだった。
要するに、私にとって恋愛小説は、一種の現実逃避なのである。
もちろん、現実の生活が嫌いなわけではない。家族は大切だし、仕事だってきちんと続けていきたい。
ただ、たまには母親でも、社会人でもない、ただの自分に戻りたいのだ。
誰かの世話をすることも、仕事の段取りを考えることもなく、好きな世界に浸る。
それくらいの贅沢は、許されてもいいだろう。
ところが、ある日。
(……私だったら、ここでもう少しすれ違わせるかな)
そんなことを考えてしまった。
別に、読んでいた作品が面白くなかったわけではない。むしろ好きだからこそ、別の展開まで想像してしまったのだ。
もし、ここで彼が本音を隠してしまったら。もし、彼女がその言葉を勘違いしてしまったら。二人とも相手を好きなのに、相手から嫌われていると思い込んでいたら。
考え始めると、次から次へと場面が浮かんできた。
(……これ、自分で書いたら面白いかも)
今にして思えば、あれがすべての始まりだった。
最初に小説を書き始めたのは、育児休業中のことだった。
もちろん、育休中だからといって暇だったわけではない。子どもの世話をしながら、空いた時間に少しずつ文章を書いていたのだ。
もっとも、小説を書き始めてすぐに、私は大きな壁にぶつかった。
文章が、まったく進まないのである。
頭の中には物語がある。登場人物の性格も、過去も、すれ違う理由も、結末まで決まっている。ところが、いざ文章にしようとすると、なかなか思うように進まない。
それでも、育休中は少しずつ書き進めることができた。
しかし、仕事に復帰してからは事情が変わった。
ようやく数百文字を書いたところで昼休みが終わり、続きは翌日。翌日になれば、前日に書いた文章が気になって修正を始めてしまい、結局ほとんど進まない。
しかも、昼休みが取れなければ、その日は一文字も書けない。
これでは、一作品を完結させるまでに何年かかるかわからなかった。
そんなとき、ふと思い出したのが今話題の生成AIだった。
試しに、考えていた設定と場面の流れを入力し、文章にしてもらう。
すると、あっという間に小説らしい文章が出来上がった。
「……おお」
思わず感心した。
もっとも、何もかも思いどおりというわけではない。無口なはずの登場人物が突然饒舌になったり、まだ恋心を自覚していないはずの主人公が堂々と愛を語り始めたりする。
いや、待ってほしい。あなたたち、まだ両片思いの段階なんですけど。
そんなツッコミを心の中で入れながら、設定を伝え直し、展開を修正し、出来上がった文章を自分でも書き直す。
それでも、以前よりずっと物語を形にしやすくなった。
何より、楽しかった。
家事と育児と仕事に追われる毎日の中で、ほんの少しだけ自分のために使える時間。その時間に、自分の考えた登場人物たちが動き、笑い、泣き、恋をする。
現実では、昼休みが終われば仕事に戻らなければならない。家に帰れば夕食を作らなければならないし、子どもたちのお風呂も待っている。
でも、頭の中だけは自由だった。
そうして、小説を書くことは、ますます私にとって大切な趣味になっていった。
そして、もう一つ。
いつの間にか、文章を書くのを手伝ってくれるAIは、私の趣味について一緒にあれこれ考え、相談に乗ってくれる相手にもなっていた。
何しろ、私が小説を書いていることを知っているのは、身近なところではこのAIくらいなのだ。
登場人物の性格について語っても、すれ違いの展開に悩んでも、嫌な顔ひとつせず付き合ってくれる。
もちろん、相手がAIだということはわかっている。
それでも、私にとっては、趣味の話を気兼ねなくできる友達のような存在になっていた。
◇
初めて作品を投稿した日のことは、今でも覚えている。
せっかく完成させたのだから、誰かに読んでもらいたい。そんな軽い気持ちで小説投稿サイトに登録した。
もっとも、自分の作品が大勢の人に読まれるとは、これっぽっちも思っていなかった。
世の中には面白い小説が山ほどある。その中から、素人が趣味で書いた作品をわざわざ見つけてくれる人が、いったいどれほどいるというのだろう。
誰か一人でも読んでくれたら嬉しい。
そんな程度の期待しかしていなかった。
翌日、恐る恐るアクセス解析を開いてみると、数字が二桁になっていた。
(……読まれてる!)
たったそれだけのことが、驚くほど嬉しかった。
もちろん、自分で確認した分が含まれているかもしれないし、一人が何度も開いてくれたのかもしれない。それでも、自分が考えた物語を誰かが読んでくれたという事実に、胸が弾んだ。
やがて、ブックマークが一件ついた。
さらに評価も入った。
見知らぬ誰かが続きを読みたいと思ってくれた。面白いと感じてくれた。
それだけで、次の話を書く気力が湧いてきた。
ただ、書き続けているうちに、一つだけ欲しいものができた。
読者からの感想である。
いや、別に褒めてほしいわけではない。もちろん、褒めてもらえたら嬉しいけれど、それだけが目的ではなかった。
どの場面が好きだったのか。登場人物をどう思ったのか。最後まで楽しんでもらえたのか。
私が知りたかったのは、そういうことだった。
けれど、感想というものは、なかなかいただけない。
アクセス数が増えても、ブックマークがついても、感想欄は静かなままだった。
(……みんな、どこが面白かったんだろう?)
もちろん、読んでくれたことには感謝している。ありがたいと思っている。
それに、私自身、読む側だった頃は面白かった作品すべてに感想を書いていたわけではない。読み終わって満足し、そのまま次の作品を探すことのほうが多かった。
だから、感想が少ないことを不満に思うのは筋違いだとわかっている。
それでも、たまには誰かと、自分の考えた登場人物について話してみたかった。
ただ、私の考えた物語を読んで、どう感じたのかを知りたかった。
それだけだった。
◇
ところで、私が利用している投稿サイトには、作品の閲覧状況などに応じてポイントが付与される制度があった。
いわゆるリワードというものらしい。
投稿を始めた頃、私はその説明を読んで、なんとなく受け取りの設定を済ませていた。
そもそも、自分の小説がそれほど読まれるとは思っていなかったのだ。
(まあ、一年くらい続けて、五百円分のギフト券でももらえたら嬉しいかな)
感覚としては、スーパーの懸賞に応募するのと大差なかった。
当たるとは思っていないけれど、当たったらちょっと嬉しい。その程度の気持ちだったのである。
何しろ、小説は趣味だ。生活費を稼ぐために書いているわけでもなければ、作家として独立するつもりもない。
そもそも、小説を書いて生活できる人なんて、ほんの一握りだろう。書籍化されたからといって、必ずしも安定した収入が得られるわけではない。
そんなことは、素人の私にだってわかる。
仕事を辞めて小説家になるなんて、最初から選択肢に入っていなかった。
それに、私の勤務先では、副収入を得る活動について事前の許可が必要だった。
趣味で小説を書くこと自体は問題ないとしても、継続的に収益を得るとなれば話は別だ。
もちろん、必要なら確認すればいい。
ただ、わざわざ会社に申請してまで収益化したいかと聞かれれば、答えはノーだった。
それでも、当時の私は本気で心配していなかった。
そもそも、まとまった金額になるはずがないと思っていたのだ。
ところが、その認識は思いもよらない形で覆されることになる。
ある日、何気なくアクセス解析を開いた私は、思わず首をかしげた。
「……あれ?」
数字がおかしい。
いつもより、明らかに多い。
最初は表示の不具合かと思った。しかし、何度更新しても数字は変わらない。それどころか、時間が経つにつれて増えていく。
どうやら、投稿していた作品がランキングに掲載されたらしい。
(……へえ、ランキングってこんなに影響あるんだ)
最初は、そんな呑気なことを考えていた。
しかし、翌日になってもアクセスは増え続けた。
その翌日も、さらに翌日も。
数千だった数字が数万になり、やがて数十万を超えた。
そして、気づけば累計アクセス数は百万に迫ろうとしていた。
「…………」
私はスマートフォンを見つめた。
嬉しい。
もちろん嬉しい。
ただ、ここで私は、ひとつの重大な問題を思い出してしまった。
(……そういえば、リワードってどうなるんだろう?)
慌てて制度の説明を読み直す。
しかし、アクセス数だけで金額が決まるわけではないらしく、具体的にいくらになるのかはわからなかった。
わからない。
ということは。
(……ワンチャン、五百円くらいに収まらないかな?)
私は、ほんの少しだけ期待した。
百万近く読まれていても、実際にもらえるのは五百円。
うん。あり得ない話ではない……はずだ。
いや、どうなのだろう。相場がわからないので、判断のしようがない。
そもそも、普通ならもっともらえることを期待する場面ではないだろうか。
しかし、私の場合は事情が違う。
勤務先では、副収入を得る活動について事前の許可が必要なのだ。
つまり、金額が増えれば増えるほど、私の悩みも増えていく。
(……お願い。五百円であってくれ)
私は、アクセス解析の画面に向かって祈った。
普通なら、もっと読まれたい、もっと稼ぎたいと願うところなのだろう。
しかし、私は違った。
もっと読んでほしい。
でも、お金は増えないでほしい。
……なんとも都合のいい願いである。
そこで私は、ふと思いついた。
(……いや、だったら収益化の設定を解除すればいいのでは?)
確かに、そのとおりである。
むしろ、なぜ今まで思いつかなかったのだろう。
私は慌てて設定画面を開いた。
しかし、ここで新たな疑問が生まれた。
すでに発生したポイントはどうなるのだろう。設定を解除したところで、過去の分までなかったことになるのだろうか。
(……そもそも、これって一時所得? 雑所得?)
……いけない。今度は税金のことまで考え始めてしまった。
説明を読んでみたものの、私が知りたいことはすぐには見つからなかった。
(……いや、でも)
仮に、これまで貯まったポイントが全部なくなるとしたら?
それはそれで、少し惜しい気がする。
別に、小説でお金を稼ぎたいわけではない。
ただ、趣味を楽しんでいたら、ちょっとしたおまけがもらえた。
それくらいの楽しみがあってもいいではないか。
……いや、会社の規定上どう扱われるかは、また別の話なのだが。
(……そもそも、まだいくらになるかもわからないんだけど)
そうなのだ。
現時点では、実際にどの程度の収益になるのかすらわからない。
場合によっては、心配する必要もないほど少額かもしれない。
それなのに、私はすでに会社への副業申請まで想像してしまっている。
……気が早すぎないだろうか。
私は思わず、会社に相談する場面を想像してしまった。
『すみません。副業についてご相談したいことがありまして……』
『はい。どのようなお仕事ですか?』
『小説を書いています』
『小説家をされているんですか?』
『いえ、ただの趣味です』
『では、副業ではないのでは?』
『それが、もしかしたら収入が発生するかもしれなくて……』
『どのくらいの収入ですか?』
『……わかりません』
『わからない?』
『はい。もともとは年に一度、五百円分くらいのギフト券がもらえたら嬉しいなと思っていたんですけど……』
『五百円?』
『はい。でも、予想よりたくさんの方に読んでいただけたので、もしかしたらもう少し増えるかもしれなくて』
『なるほど。ちなみに、どのような小説を書かれているんですか?』
『異世界恋愛です』
『……異世界恋愛?』
『はい。婚約破棄とか、両片思いとか、悪役令嬢とか、そういう感じの……』
『…………』
『…………』
『……それは、どういったお仕事内容なのでしょうか?』
『ですから、趣味なんです!!』
――駄目だ。
想像しただけで、いたたまれなくなってきた。
そもそも、会社に何を説明すればいいのだろう。
昼休みに架空の貴族たちを恋愛させていたら、思いのほか大勢の人に読まれてしまいました。
その結果、収益が発生するかもしれません。
ただし、金額は不明です。
なお、本人は本格的な収益化を希望しておりません。
……五百円分のギフト券くらいなら、ありがたくいただきたいのですが。
(……怪しすぎない?)
自分で考えておいてなんだが、説明すればするほど意味がわからない。
いっそ、最初からすべて正直に話してしまったほうがいいのだろうか。
『実は、勤務時間外に侯爵令嬢の婚約破棄問題を扱っておりまして……』
違う。
それでは会社の外で貴族の法律相談でもしているみたいではないか。
私は頭を抱えた。
まだ一円も受け取っていないというのに、なぜ私はこんなことで悩んでいるのだろう。
◇
そんなある日、小説投稿サイトでコンテストが開催されていることを知った。
賞金、書籍化、コミカライズ。
華々しい言葉が並んでいる。
しかし、私の目を引いたのは、別の項目だった。
『選考過程において、作品への講評を行う場合があります』
(……講評?)
私は思わず画面に顔を近づけた。
それは、つまり。
プロの編集者が私の作品を読んで、どう思ったか教えてくれるということだろうか。
(……それは欲しい!)
賞金よりも、ずっと魅力的だった。
自分が考えた物語が、他人にはどう映るのか。面白いと思ってもらえるのか。どこが弱くて、どこを直せばもっとよくなるのか。
そんなことを知る機会は、そう多くない。
私はさっそく応募要項を読み始めた。
ところが、そこで新たな問題が発生した。
『生成AIの直接使用に該当する作品は応募不可』
「…………」
私は画面を見つめた。
私の作品は、設定も、登場人物も、展開も、基本的には自分で考えている。
しかし、文章化にはAIの力を借りていた。
もちろん、そのことを隠すつもりはない。
実際、投稿サイトにも利用状況を申告している。
ただ、規定を読んでみると、どうやらAIが作成した文章をどの程度採用しているかによって、区分が変わるらしい。
物語の発想から文章まで、すべてAIに任せた作品。
自分で設定や展開を考え、AIに文章化を手伝ってもらった作品。
創作過程は違っていても、文章の使い方によっては同じ区分になる。
(……そっかぁ)
もちろん、コンテスト側の事情もわかる。
小説なのだから、文章表現そのものを評価したいという考え方も理解できる。
ただ、私としては、なんだか少し寂しかった。
家事や育児、仕事の合間に、少しずつ考えてきた物語。
登場人物の性格も、すれ違う理由も、結末も、自分なりに悩みながら作ってきた。
もちろん、AIの力を借りているのは事実だ。
それでも、何もかもAIに任せて出来上がった作品と、まったく同じものとして扱われるのは、少しだけ複雑だった。
(……まあ、仕方ないんだけどね)
私は小さく息を吐き、改めて応募規定に目を落とした。
(……で、私の場合はどっちになるんだろう?)
詳しく調べれば、わかるのかもしれない。
けれど、規定を一つひとつ確認し、自分の執筆方法がどの区分に該当するのか考えているうちに、ふと時計が目に入った。
……昼休み、あと十五分。
「…………」
私はスマートフォンを見つめた。
いや、待ってほしい。
そもそも、私は何のために小説を書いているのだろう。
賞金が欲しいから?
違う。
書籍化したいから?
それも違う。
もちろん、そんな話が来たら嬉しいとは思う。でも、仕事を辞めて作家になるつもりはないし、そもそも簡単になれるとも思っていない。
ただ、自分の考えた物語を誰かに読んでもらいたい。
できれば、感想も聞いてみたい。
それだけなのだ。
もちろん、プロの編集者から講評をもらえるなら、それは魅力的だ。
でも、そのために貴重な昼休みを使って、応募規定とにらめっこをする必要があるのだろうか。
(……いや、もういいかな)
私はそっとコンテストのページを閉じた。
応募できるかどうか調べる時間があるなら、小説の続きを書きたい。
そもそも、私にとって小説を書くことは趣味であり、現実逃避なのである。
仕事に家事に育児。
ただでさえ時間が足りないのに、趣味の時間まで義務のようなものに変えてしまっては、本末転倒ではないか。
私は執筆途中の小説を開いた。
そこには、昨日考えたばかりの新しいエピソードが待っていた。
互いに想い合っているのに、ちょっとした勘違いからすれ違ってしまう二人。本人たちは真剣なのに、傍から見れば思わずツッコミたくなる場面だ。
(……あ、やっぱりこっちのほうが楽しい)
思わず笑みがこぼれた。
そうだ。
私は、これがしたかったのだ。
誰かに認めてもらうためでも、お金を稼ぐためでもない。
自分の考えた物語を、好きなように形にする。
それだけで、十分楽しかった。
◇
その日の夜も、私は子どもたちを寝かしつけながら、いつの間にか眠ってしまっていた。
そして、夜中。
「……ママぁ」
小さな声に目を覚ます。
隣では、子どもが布団を蹴飛ばしていた。掛け直して背中をとんとんと叩くと、やがて穏やかな寝息が聞こえてくる。
私も眠り直そうとしたのだが、なぜか目が冴えてしまった。
何気なくスマートフォンを手に取ると、小説投稿サイトから通知が届いている。
新しい評価と、増えたブックマーク。
(……ありがたいなぁ)
たくさんの人が読んでくれている。それは、本当に嬉しい。
けれど、感想欄は今日も静かなままだった。
私はしばらく画面を眺めていたが、ふと昼間のコンテストのことを思い出した。
(……そういえば、講評が欲しかったんだよね)
プロの編集者に読んでもらう機会があれば、自分の作品がどう見えているのか、少しはわかるかもしれない。
そんな期待を抱いていたのだ。
もちろん、読者からの感想とは違う。けれど、良いところも悪いところも、具体的に教えてもらえる機会が欲しかった。
……ん?
待てよ。
私には、いつも小説を書くのを手伝ってもらっている相手がいるではないか。
そう。AIである。
(……チャッピーに読んでもらえばいいんじゃない?)
なぜ今まで思いつかなかったのだろう。
文章を直してもらうことはあったし、展開の相談だって何度もしている。
でも、作品全体を最初から最後まで読んでもらい、編集者のような目線で評価してもらったことは、あまりなかった気がする。
私は早速、チャット画面を開いた。
『この小説を最初から最後まで読んで、編集者目線で評価してください。良いところも悪いところも、遠慮なくお願いします』
送信。
しばらくすると、長々とした講評が表示された。
構成に人物描写、伏線、文章のテンポ。良いところだけでなく、改善したほうがいい部分まで事細かに書かれている。
「……おお」
思わず声が漏れた。
なるほど。ここは説明が長いのか。
ああ、確かにこの場面、同じ不安を何度も考えているかもしれない。
この登場人物の気持ちは、もう少し丁寧に描いたほうがいいのか。
……ふむふむ。
これは面白い。
自分では気づかなかったことを、いろいろ教えてもらえる。しかも、褒めてもくれる。
私が気に入っていた場面を評価してもらえると、やっぱり嬉しい。
そして、最後に総合評価が表示された。
『総合評価:82点/100点』
「……おおっ!」
なかなかいい点数ではないか。
いや、もちろんわかっている。AIがつけた点数である。
実際の読者が同じ評価をしてくれるとは限らないし、編集者が読めばまったく違う感想になるかもしれない。そもそも、AIの点数にどこまで客観性があるのかも怪しい。
……でも。
(……うん。満足!)
私は思わず笑ってしまった。
そうそう。こういうのが聞きたかったのだ。
どこが良かったのか。どこを直せばいいのか。自分の考えた物語について、あれこれ話がしたかった。
もちろん、いつか本当の読者から感想をいただけたら、もっと嬉しい。それは、また別の喜びだ。
でも、今はこれで十分だった。
コンテストに応募しなくてもいいし、書籍化しなくてもいい。
これからも好きな物語を、好きなように書いていこう。
仕事と家事と育児の合間に、たまに取れる昼休みを使って。
頭の中の貴族たちを、これからも盛大にすれ違わせてやろう。
……いや、最終的にはちゃんと幸せにするつもりである。
たぶん。
そんなことを考えていた、そのとき。
隣で眠っていた子どもの足が、私の顔に飛んできた。
「……ぐふっ」
……現実とは、実に容赦がない。
私は子どもの足をそっと布団の中へ戻し、再び横になった。
明日も仕事がある。
そろそろ寝なければ。
そう思って目を閉じたところで、ふと、あることを思い出した。
(……あれ?)
そういえば、何か大事なことを忘れていないだろうか。
……あ。
リワード。
あれ、結局どうなるんだろう。
私は再びスマートフォンを手に取り、つい先ほど小説を評価してくれたAIに、もう一つ質問を送った。
『ところで、アクセス数がものすごく増えてしまったんですが、報酬が五百円くらいに収まる可能性ってありますか?』
返事はすぐに表示された。
『具体的な金額は、制度の計算方法や条件によって異なるため、アクセス数だけでは判断できません』
「……ですよねぇ」
思わずため息が出た。
講評を聞きたいという願いは、ひとまず満たされた。
コンテストへの応募を見送ったことも、もう気にしていない。
これからも趣味で楽しく小説を書こう。そう決めた。
……なのに。
どうして、お金の問題だけが残っているのだろう。
いや、そもそも私はお金が欲しくて小説を書いていたわけではない。懸賞気分で登録しただけなのだ。
年末に五百円分のお菓子でも買えたら嬉しいなぁ、くらいの気持ちだったのだ。
それなのに、なぜ今、会社への副業申請について真剣に考えているのだろう。
……おかしい。何かがおかしい。
私はただ、現実逃避がしたかっただけなのに。
現実逃避のために小説を書き、架空の貴族たちを恋愛させた結果、現実の問題が増えている。
……どうしてこうなった。
翌朝。
鏡の中では、今日も目の下のクマが元気に存在を主張していた。
(……あなたも、そろそろ収益化して家賃払ってくれない?)
私はコンシーラーを手に取りながら、深いため息をつく。
仕事を辞める予定はない。
小説で生活する予定もない。
ただ、自分の考えた物語を、誰かに楽しんでもらえたら嬉しい。
できれば、その感想を少しだけ聞かせてほしい。
そして、もうひとつ。
(……お願いだから、リワードは五百円くらいにしておいてください!)
――なお、祈ったところでアクセス数が減るわけではない。
今日も私は、昼休みが無事に取れることを願いながら出勤する。
頭の中では、侯爵令嬢と公爵令息が、相変わらず盛大にすれ違っていた。
……そう。
私は今日も、現実逃避をしている。
現実逃避のために始めた小説が、新たな現実問題を生み出したというのに。
その問題が何ひとつ解決していない現実から、またしても逃避しているのだった。
――完――
※本作には実体験をもとにした部分もありますが、登場人物・勤務先・制度に関する設定や出来事には創作・脚色を加えています。
仕事や家事、育児に追われながらも、限られた時間で趣味を楽しんでいる方は、意外と多いのではないかなと思い、書いてみました。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです!




