深緑の檻
《一》 穢れなき王子
凍えた鉄格子の隙間から覗く星空は、皮肉なほどに美しく澄み渡っていた。
寒空の下、怒れる民衆の刃を受けた兄と母の亡骸は、今も吹きすさぶ風に揺られているのだろうか。政治的な実権の有無など関係なく、長らく病床に伏していた父もろとも、幼い弟妹たちは一足早く処刑台の露と消えたというのに。
――僕は、なぜまだ、生かされているのだろう。
エルヴィア王国の第二王子、リセル・カエリス・アルヴァリス。
最も美しく、清廉な、神に愛された人形。
地を這いずる生命の痛みも穢れも知らぬ、高貴な傀儡。
そう揶揄されてきたことすらも知らず、世俗から遠く隔てられた天空の籠の中で育った、愚かな王子。
「ねえ」
鉄格子の外に立つ兵士の背がびくりと震える。
「きみたちは、苦しかったの」
「は――、いえ、あの」
「そう畏まらなくてもいい。どうせ明日には消える命だ」
「カエリス殿下!」兵士は悲痛な声を上げた。「神をも畏れぬ蛮族の言うことなど」
「ごめんね、僕には何もない。僕は何も知らず、何もしなかった。僕が今こうして生かされているのは、象徴としての価値すらなかったからだろう。……この謝罪にさえも、価値がない」
僕の目に映る世界は、常に満ち足りていて、美しかった。
異民族への弾圧、不作による飢饉、宰相と貴族評議会の横暴が積み重なり、ついに民が蜂起したのだと聞かされても、まるで現実感が湧かない。
長い夢でも見ていたかのようだ。
かじかみ、ひび割れた指先の痛みだけが、かろうじて僕に生の実感を保たせていた。
「どうか、お逃げください。殿下に罪がないことは皆が知るところです。革命軍といえど、ラディア神の恩寵の象徴たる『新緑の瞳』を手にかけたくはないでしょう。私が今ここにいることこそが、その証左です」
兵士は振り返り、僕の瞳を直視しないように目を伏せながら、深々と拝礼してみせた。教会兵を見張りに立てたのか――よりにもよって。
僕の言葉に、彼は逆らえない。
たった一言命じさえすれば、牢の鍵は開く。
両手両足に嵌められた形ばかりの緩い枷を見下ろして、僕は笑った。たかが瞳の色だけで区別されるこの命に、最も効果的な使い道があるのだとしたら。
「古い時代の象徴が死ぬことに、意味があるんだろう?」
せめて、意味のある死を迎えたい。
§
誇り高く、穢れなき王子のまま断頭台に上がることを待ち望んでいたのに。
「だめ、その人を殺さないで――!」
処刑場に連れ出される直前、ひとりの少女の『願い』が、僕の終わりを妨げた。
《二》 新時代の巫女
異国の言葉が並ぶ紙切れに、訳もわからずに署名をした。
アヤ・ナヴィール。
いつまでも見慣れない記号の羅列は、奴隷上がりの小娘に綴ることのできる唯一の文字列だった。
――誰の命を奪う書類だとも、知らずに。
「あれが例の、異民族の? 本当に緑の瞳をしている……」
「烏羽色の髪に、蜂蜜色の肌! 素晴らしい。まさしく我らの代表だ」
私は、エルヴィア王国と国境を接する、ナヴィール連邦の部族出身の巫女。
新たな時代と融和の象徴。
「"ラディア神の祝福を"」
教え込まれた言葉を、呪文のようにくり返すだけの存在。
物々しい警護の兵に囲まれながら、王都の決められたルートを巡回し、行く先々で出会う民に形ばかりの祝福を与えていく。虐げられてきた弱者の希望、なんて。病を祓う力もなく、パンひとつ生み出さない儀式に、一体どれだけの意味があるのだろう。
幼子を攫って鎖に繋ぎ、ときに異民族と蔑み、ときに畏怖し、利用しようと群がってきた大人たちは、革命の騒乱に紛れて皆死んだ。
私を鞭打つ者も、罵声を吐く者も、もうどこにもいない。
代わりに私を取り囲むのは、かつての主君を手にかけた、信じるに値しない裏切り者たちだけだった。まるで理解できない価値観を掲げて、彼らは嬉々として血を流し、乾いた砂の大地を赤く染めた。
見るに堪えない残虐は、すべて過ぎたことだと――私は、油断していた。
中央広場に聳え立つ処刑台を見て、震える。数多の王侯貴族の首を落とした狂気の塊が、なぜまた組み上げられているのか。
「待って、もう処刑は……」
すべて終わったのではなかったの。
「第二王子のカエリス殿下ですよ。特別なお方でしたからね。助命を願う者も多く、事後処理が滞っていましたが――ご自身で同意なされたのでは?」
裁きを待つ罪人の名前を耳にした瞬間、息を呑んだ。このくだらない世の中にはもう、信じる価値のあるものなど何もないと思っていた、私が――。
「どこにいるの⁉︎ いますぐ連れて行って」
初めて、用意された決定に抗った。
§
天井付近に打ち抜かれた小さな格子窓から差し込む光が、粗末な石室には不似合いな麗人の姿を浮かび上がらせていた。
輝くような金髪。透き通るような翠眼。浮世離れした美貌を持った『穢れなき王子』――リセル・カエリス・アルヴァリス。血塗れた広場から遠く隔たれた、閑散とした街外れの教会の片隅。誰からも忘れ去られたような半地下の独房に、ひっそりと匿われるようにして、彼はまだ、生きていた。
「殿下。……お時間、です」
「そう」
刑の執行を告げる声に短く応えて、リセルは優雅な所作で平然と立ち上がった。単純な動作に合わせて舞い上がる土埃までもが美しく、鍵束を握る牢番の手は震えていた。
「待って」
か細く震えた、こんな声では届かない。
「だめ……」
溢れる涙で霞んだ視界に映るのは、在りし日の天上人。信仰の象徴であった人。
私の無知が、貴方を死に追い込んだ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
それでもまだ、間に合うのであれば。
「だめ、その人を殺さないで――!」
警護という名の監視の手を振り切り、戸惑う兵たちの前で膝をつく。力なく投げ出された美しい手に縋りつくようにして、私は願った。
人々に『新緑の瞳』と讃えられてきた本物の象徴は、なりふり構わぬ必死の嘆願の末、『新時代の巫女』を騙る偽物の召使いになった。
清廉潔白な神の化身を穢したのは、他でもない私の祈りだと知るのは――もっとずっと、あとになってからのことだった。
《三》 巫女と従者
「慈悲深きラディア神の御使い、新たな時代の象徴たる『深緑の巫女』アヤ・ナヴィール様にご挨拶いたします」
両眼を黒い布で覆い隠した美しい青年――リセルは、淡々とした声で口上を述べ、私の足の前に跪いた。
寝台の端に腰を下ろし、教え込まれた禊の手順に従って水桶に素足を浸していた私は、その後に続く所作を思い出して身震いする。
悪夢のような日々だった。昨日までは大人しく受け入れるしかなかったけれど。
「やめて……今日は誰もいないじゃない……!」
平然と私の足の甲へ口づけようとしたリセルの手から逃れるようにして、寝台に飛び上がる。信じられない。やっと監視の目が外れたのに、どうしてまだこんな真似を!
「まだ拝礼の途中ですよ、巫女様」
「あなたがそんなことする必要ないって言ってるの。そのふざけた布も外して! 変な言葉も使わないで!」
リセルは、目隠しの布を下げて美しい翠眼を覗かせ、皮肉げな笑みを浮かべて答えた。
「何を今さら……きみが与えた役目だろう?」
見る者を跪かせるほどの美しさを持つ『新緑の瞳』――リセルの目を覆う布は、視界を奪うためではなく、ラディア神の恩寵を彼から奪うためのものだった。いっそ抉るべきだと主張する官僚と神への冒涜だと主張する司祭の論争は、今も続いている。
私は知らなかった。
リセルが私に仕えることを許されたのは、それが彼の名誉を穢し、誇りを踏みにじる十分な刑罰として認められたからなのだと。
私は知らなかった。
命よりも誇りを重視する人々がいることを。
「私こんなこと――」
望んでなかった、と、言えるわけがないことは、自分が一番よくわかっている。
過去に戻れたとしても、私は何度でもリセルの処刑を止めてしまう。彼の意思に反したとしても。きっと私は、あなたを側に望んでしまう。
寝台の上を這い、震えた手を伸ばして、彼には似合わない簡素な布の衣を掴む。絶対に振り解かれないことに甘えて、今にもこの世界から消えてしまいそうな彼を引き止めようと縋りつく。
私にできるのは、いつもこんなことばかりだ。
「わ……私の命令が聞けないの、リセル。普通にして」
言葉に詰まった愚かな主人を、美しい従者は声もなく嘲笑う――硬く握りしめた指先にその振動が伝わってきた。
「本来の普通がどちらか、そろそろ覚えるべきだよ、巫女様。きみの言葉に誰かを従える力はないってこともね」
言われるまでもなく、わかっている。
宮中で、神殿で、街中で――すれ違う誰もが痛ましげな顔をして、私の後ろに控えるリセルを盗み見ていた。自分がリセルに相応しい主人ではないことを、彼に与え続けている屈辱の重さを、思い知らされるようだった。
それでも、リセルは従ってくれる。
リセルだけが、私の言葉を聞いてくれる。
「この返答は代筆しておくけど、いいよね」
「待って、あの、内容、は」
「参列する価値のない晩餐会への招待」
「でも、いろんな人に顔を見せるのも、大切なお役目だって」
少し前まで、私に回される書類の答えは承諾のみだった。求められたことを受け入れて、意味もわからず笑うことだけが、名ばかりの巫女に与えられた役目だった。
「きみの無作法を酒の肴にするつもりの会合にまで顔を出す必要はないよ。もっとも、お目当ては『新緑の瞳』の方だろうから、どうしてもと言うなら僕が」
「断って」
華やかな微笑の裏で馬鹿にされたって、どうせ私にはわからない。けれど、リセルは違う。私には理解できない上流階級の悪意や侮蔑を、リセルはすべて受け止めてしまう。
「結構。じゃあ次、三日後に王宮の神殿で祭祀がある。必要な祈りの言葉は――」
リセルの手で紡がれる文章を見て、この国の文字を初めて綺麗だと思った。
今の私は、リセルの支えなくしては、何ひとつまともな役目をこなせない。望んで手にした地位ではなかった。流されるだけ流されて都合よく利用されても構わないと思っていたのに。私は、日に日に欲深くなっていく。
もっと、知識が欲しい。力が欲しい。
リセルに恥じない主人として認められるように。
――何の罪もない彼に与えてしまった、理不尽な刑罰から解き放てるように。
《四》 奴隷と王子
この国では、あらゆるものに値札がつけられていた。
生きとし生けるものすべてを尊いものとして崇めていた、緑豊かな故郷の森にはない序列が、すべての人間を支配していた。
ただ一人を、除いて。
エルヴィア王国に攫われてすぐの私は、単純な言葉すら理解できず、手先は不器用で、人並みの体力もなかった。典型的な異民族の容姿をした痩せぎすの子供など、労働力としては役立たずだった。
それでも、瞳の色が深緑であるという理由だけで高値がついた。
最初は金回りのいい商人たちが、物珍しい装飾品のように私を所有し、やがて飽きて、つぎの主人へと売り渡した。
いくつかの屋敷を転々としているうちに、教会の目に留まり、王宮に流れ着いた。
おびただしいほどの人がひしめく城壁の内側には、飢えも寒さもなく、色とりどりの宝飾に飾られた黄金の世界が広がっていた。
けれど、故郷の森の緑だけは、どこにもなかった。
まだ地理に不慣れだった私は、懐かしい花の香りに誘われて、神殿の奥に迷い込んでしまったことがある。
貴重な水を潤沢に使って張り巡らせられた水路の中心。一面の花と緑に覆われた小島に、彼が立っていた。
宮中に溢れるギラギラとした黄金とはまるでちがう、繊細な輝きをまとった金の髪が、真っ白な衣とともに風に吹かれて揺れていた。
透き通るような翠眼と目が合った瞬間、決して立ち入ってはならない場所に足を踏み入れてしまったのだと、すぐに気づいた。
「あ……」
光の神ラディア。その瞳の色こそが、緑なのだという。
それは王家と縁戚関係にある高位貴族のみが受け継ぐはずの、高貴な色。
ラディア神の恩寵を表す、聖なる象徴。
その眼を穢すことは許されない――厳罰を覚悟して地に伏せた。
「もうし、わけ」
「その道を行けば、司祭には見つからない」
彼は、感情のこもらない声で告げ、茂みの向こうの小路を指差した。
一連の仕草が、あまりにも優雅で。芸術品のように美しいと称える言葉の意味を、初めて理解した。
リセル・カエリス・アルヴァリス。またの名を『新緑の瞳』と呼ばれた第二王子――彼の居住区は『聖地』と名付けられているのだと、後に知った。
神殿に身を預け、ラディア神の御許に限りなく近い桃源郷に生きる彼は、この地上の何者にも縛られてはならない。
この国にいるかぎり、どこにいても私を取り巻いていた表裏一帯の蔑みと畏れを、彼だけが持ちえない。
たった一度の邂逅。眩いほどの自由に、憧れた。
憧れていたのだ。忘れられないほどに、強く。
あのときの彼と同じ立場に、私はいるのに。
彼からその地位を奪ったのは私なのに。
――私はまだ、自由に焦がれている。
《五》 高貴な鳥籠
私が王都の街中を巡回する間、リセルは一人で部屋に残るようになった。巫女様のためにという口実で借りた書物をいくつも持ち込んで、熱心に目を通しているようだった。
四六時中、私たちに張りついていた兵は、いつしか数を減らしていた。
街の教会の中までは、監視の目は届かない。あの窓を開けて、馬を借りて。国境まで一昼夜も駆け抜ければ、私は故郷の森で生きていけるのではないかと――考えたことは何度もある。
けれど、リセルを縛りつけた私に、逃げられるわけがなかった。
「お願い。この国の言葉を、教えてほしいの」
王宮や神殿では弱みを見せるなというリセルの言いつけを守って、街の中でひっそりと教えを乞い、あいかわらず見慣れない記号じみた文字列を見よう見まねで書き写していった。
今はまだ何もかも足りないものばかりだけれど。ひとつずつできることを積み重ねて、いつかは彼を自由にしたいと――そう、思っていたのに。
§
私の部屋で、パチパチと音を立てて、何かが燃えていた。
「なにを、しているの……リセル……」
火かき棒を片手にうずくまるリセルの『新緑の瞳』の中で、暖炉の火が揺れる。
「聖句の朗読、かなりマシになったね。文字は誰に習ったの?」
「覚えろって言ったのは、あなたじゃない……。それが何か、わかってるの」
私の醜い文字が並んだ手習いの紙と共に、金文字が刻まれた背表紙が燃えている。
あれは、この国で最も神聖な書物だ――。
なぜ、平然と火にくべられるの。ほんの少しでも読み解こうと、毎日のように私が向き合ってきた、聖典を。
「こんなもの、きみには必要ないだろう」
「でもあなたにとっては大切なものでしょう!」
「僕にとって? 意味のある救いであったことは一度もない戯言ばかりなのに」
「ぜんぶ……エルヴィアの祭祀では欠かせない祈りの言葉だって、あなたが」
「そうだよ。僕が語ってきた言葉の、ほぼすべてが記されている。あんな書物がなくたって、きみの代わりにいつでも諳んじられる」
ああ、そうか。そうだった。
先に踏みにじったのは、私だった。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
リセルが私に与える庇護と献身は、優しさによるものではない。
――これは、復讐なのだ。彼の居場所を奪った私への。
嘘だ。信じたくない。
あのリセルが聖典を灰にしただなんて、この目で見てもまだ信じられないのに。
「きみは、何ひとつ憂うことなく、ただそこにあればいい」
リセルが笑う。いつか『聖地』の中で出会った天上人の、整然とした無表情とはかけ離れた、どこか執着じみた狂気を滲ませた表情で――それでも彼は美しかった。
いつでも、どこでも、彼は美しかった。私とは、似ても似つかないほどに。
「私は、あなたのようには生きられない」
「巫女様?」
「やめて!」
悲鳴のような声を上げて拒んだ。
――リセルは、私を、憎んでいる。
わかっていた。目を背けていた。ここはまるで美しく飾られた檻の中。誰も私という人間を必要としない。高貴な鳥籠のようで、息が詰まる。
「もう許して! あなたは私をどうしたいの? 窮屈な檻に閉じ込めれば満足?」
醜く歪んだ顔を両手で覆い隠す。滲みだした涙が溢れて止まらない。私にそんな資格はないってわかってるのに。堰を切った感情の渦が制御できない。
――私はただ、あなたを守りたかった。
あなたを縛りつづけることが苦しくてたまらなかった。
憎いなら憎いと言ってほしい。どうしたら償えるのか教えてほしい。
どうしても許されないというのなら、せめて。
――それでもあなたに愛されたいと願う、馬鹿な私の心を殺してほしい。
一時の、沈黙。
乱れた呼吸音とパチパチと聖典の燃える音だけが室内に響き、やがて――カラン、とリセルの手から火かき棒の滑り落ちる音がした。
「ちがう……囚われていたかったのは、僕だ」
《六》 偽りの死別
悲鳴のようなアヤの叫び声を耳にした途端、冷や水を浴びせられたような衝撃を受けた。両手で顔を覆い、華奢な肩を震わせながらしゃくり上げる彼女の袖口が、みるみる濡れていく。
――閉じ込める? 僕が、彼女を?
アヤ・ナヴィール。異民族の巫女。新しい時代の象徴。静かに死を待ち望んでいた僕の前に現れ、どうか殺さないでと強請って泣いた、恐れ知らずの少女。
僕の意味を奪い去っていった、か細い腕の主。
あまりにも脆弱で、あまりにも純粋な、彼女の願いこそが――僕を今なおこの世界に磔にしているというのに?
清廉な象徴のリセル・カエリス・アルヴァリスは、革命の夜に死んだ。穢れた抜け殻に成り果てても、まだ生きている自分が許せなかった。
けれど。
――僕はただ、責任を取らせたかっただけだ。
アヤを窮屈な檻に閉じ込めている自覚も、苦しめている自覚も、僕にはなかった。彼女が立つその場所は、かつての僕が何も感じずに生きていた場所なのだから。彼女に与えられる枷は、かつての僕が当たり前のように受け入れていた――ああ、そうか、僕は。
「ちがう……囚われていたかったのは、僕だ」
縋りつかれた手を、振り払えずに。何もできない巫女を側で支えることを建前にして。彼女が自らの足で立つ自由を奪いながら。
彼女の手に囚われることで――遠い安息の日々を、投影していた、だなんて。
なんてくだらない、意味。
僕にとって、アヤ・ナヴィールは生命の象徴だった。疎ましくも、眩い。
不自由さを知ることもないまま籠の中にいた僕のようには――死んだようには生きられない彼女は、やがて少しずつ壊れていくのだろう。
その手が僕に縋りつづけるかぎり。
§
「巫女様――アヤ・ナヴィール。まだ起きてる?」
「リセル? こんな時間に、どうして……それに、そんなものどこから」
「話しにくいことを話したい夜に最適な飲み物といえば、相場が決まってるからね。ワインを飲むのは初めて?」
「ええ……まあ」
訝しげな顔をしながらも、アヤは扉を開けて僕を迎え入れた。
珍しく部屋の外で僕が目隠しを外していたことも、彼女は咎めなかった。
「きみは僕に、どうしたいのかと聞いたね」
ナイトテーブルにボトルを置きながら、用意してきたグラスの片方に赤紫色の液体を注いで、アヤに手渡す。
まだどこか怪訝そうに躊躇う彼女に対し、強引に促すようにグラスをあわせて、一口。
細い首を注視して、喉が動くのを確認してから、僕は続けた。
「――殺したい、と言ったらどうする?」
グラスを手にした姿勢のまま、アヤは固まった。
「たとえば、その杯に、致死量の毒が入っていたとする」
「まさか……!」
「新政府の人間が『新緑の瞳』を奪えとうるさかったのは、この眼には人を従える力があるからでね――その気になれば毒のひとつくらい簡単に手に入れられるんだ」
グラスから手を離そうとしたアヤの手を、上から握りしめて制止した。
重要なのは、この先だ。もう片方の手でアヤの肩を抑えて、その瞳を正面からじっと見据えながら、一言ずつ刻みつけるように語っていく。
「緑の瞳を持つ聖職者が亡くなった場合、その身体を暴いてまで死因を調べようとする背徳者はいない。ラディア神の魂が抜けるまでの三日間は、誰の手も届かない場所に安置される」
「リセル……? さっきから、何を言っているの」
「きみの立場ならば、その遺体は神殿の地下の霊廟に運ばれる。あそこには、今となっては僕以外知らない、古い王家の抜け道がある。右から三番目の石櫃にあるレリーフだ。触ればわかる。地下水の流れに沿って歩いていけば、国境近くの山の麓まで簡単に抜けられるだろう」
「待って、リセル! 私、あなたが望むなら毒でもなんでも飲むわ。でも、その口ぶりじゃ、まるで」
「計算が正しければ、――二日後に、きみは目覚める。僕の話の意味、わかるね?」
アヤは、賢い娘だ。生まれ育った環境のせいで、人よりも知らないことが多かっただけで、頭の回転は悪くない。だからこそ僕は、彼女が学ぶ機会を奪おうとしたのだから。
「……私がいなくなったら、この国はどうなるの?」
「代わりはいくらでもいるよ」
「たとえば、あなたみたいな?」
「きみがいなくなれば、僕は元の立場に戻るだろう」
「私がいない方が、あなたは幸せ?」
「そうだね……」
――出会わなければよかったと思うほどには。
アヤの瞳に涙が滲む。彼女はよく泣く。隣国の大部分を覆う深い森によく似た色の瞳から、雨のような雫が溢れる様を見るのは、これで何度目だろう。
「わかった……それでもリセル、私、は……あなたを……」
言葉の途中で力の抜けた彼女の身体を受け止めて、そっと床に横たえる。
――最初の杯に、毒はもう仕込んであった。
「大丈夫。酔いが覚める頃にはすべて終わっている――さようなら、アヤ。僕は、きみのようには生きられない」
《七》 天空の籠
「リセルの瞳は、神様の瞳なのよ」
記憶の底にこびりついた母の言葉が、どのような声色で語られたものだったのか、僕には思い出せない。
あのひとはいつも、気安く名を呼ぶことすら許されない距離から、誇らしげにも寂しげにも見える微笑を浮かべて、僕を見ていた。
王妃の胎から生まれ落ち、両目を開いた瞬間から、リセル・カエリス・アルヴァリスの肉体は、ラディア神の所有物だった。
大司教より『空にあるもの』の名を与えられ、物心ついたときには、神殿の奥深くに造られた『聖地』の中で一日を過ごすことが当たり前になっていた。
「何ひとつ憂うことなくそこにあれ」
それが、僕に与えられた、特別な役目だった。
天高くより地表を照らし賜う、偉大なるラディア神の恩寵を体現するもの。この身の眼孔に収まった『新緑の瞳』を通して、神は人々の暮らしをご覧になっているのだと、司教たちはくり返し語った。
――ゆえに、いかなる穢れも瞳に映してはならないのだと。
今にして思えば、なんともくだらない。彼らは、民心を束ねる象徴として『新緑の瞳』を王家から隔離し、都合よく利用する口実が欲しかっただけだ。
そんなくだらないことに、僕はずっと、気づかなかった。
長引く戦乱を憂いながら身を崩し、臥せった父。
飢饉の恐れを貴族院に訴え、退けられていた兄。
ひそかに異民族の奴隷を保護していた母。
何度も『聖地』に忍び込もうとして罰を受けていた弟妹。
遺された記録を辿り、神の瞳に触れさせるまでもないと切り捨てられた『穢れ』の数々を、ひとつひとつ目に焼きつけていった。
どこからともなく現れた真実などでは決してない。『新緑の瞳』の言葉には力があったのだから。たった一言でも望みさえすれば――現実は、すぐ隣にあった。
《八》 夢の終わり
嫌な時間に目が覚めた。
霞む目をこじ開けて、まず視界に映ったのは、土埃に汚れた石積みの壁だった。
粗末な寝台の上で身を起こし、震える身体に薄い毛布を巻きつけて寒さをしのぎながら、手を付けず床の上に転がしたままの固いパンとチーズの切れ端を見下ろす。
前回よりも厳重に拘禁されたとはいえ、今日限りの仮住まいとしては、誤差のようなものだった。死刑の執行を待つ囚人の待遇としては、まだ随分と生易しい。
「……これが僕の『元の立場』だからね」
命を救われた恩義に背き、慈悲深い巫女を毒殺した大罪人。
復讐心に憑りつかれた狂気の王子。
後世に語り継がれる悪評はそんなものだろう。
いつかどこかで顛末を耳にしたとき、あの少女は怒るだろうか。
あるいは、この世界で唯一、ひとりの人間として僕の死を悼むだろうか。
アヤ・ナヴィールに出会うことなく、穢れを知らぬ美しい人形のまま終わりたかった。己の愚かさを思い知ることもなく、夢うつつのまま世を去れたのなら、どれだけよかったか。それが叶わぬのであればせめて、意味のある終わりを。
願いは今も変わらない。
けれど――かつての夜よりも、不思議と心は澄んでいる。
鉄格子の向こうの空からは、とうに星々が消え失せ、蒼黒のヴェールの端は、わずかに白み始めているようだった。
まもなく、夜は明ける。
リセル・カエリス・アルヴァリス――何も知らず、何もしなかった、愚かな王子。
最後の王族として、責任を果たせ。
《九》 神よ、ご照覧あれ
長い夢が、終わる。
一日の中で最も高く、煌々と中天に輝くはずの太陽は、厚い雲の向こうに潜んで姿を見せない。――ラディア神は、ご照覧くださらないようだ。
恵みの雨は降らず、乾いた風が吹き荒ぶ中、処刑場となる広場には足の踏み場もないほどの群衆が詰めかけていた。
旧王家の象徴――かつての清廉さなど見る影もなく、復讐に手を染め、悪鬼と化した王子の最期を一目見ようと、彼らは足を運んできたのだ。
アヤは民に愛されていたのだな。
ゆるやかに忘れ去られていくはずであった、僕よりもよほど。
この恩知らず、ラディア神の名に泥を塗った愚か者め――と。
怨嗟の声が、降り注ぐ。
「これが……」
兄も、母も、歩んだ道。
かつては共に浴びることを許されなかった、悪意を、投石を、暴言を、今は一人、全身で受け止めている。
末期には自らの足で立つことすら叶わないほど衰弱していた父は、朦朧とした意識のまま運び込まれた。幼い弟妹たちは、何もわからぬまま毒杯を呷り、その目を閉ざしたまま、苦しむことなく刃を首に受けた。
――僕は。
この眼を開いて、お前たちを見る。
毅然と顔を上げ、広場に詰めかける民、一人一人と視線を絡めるように、じっくりと眺め回す。
断罪者よ。
今この時、この広場に集い、古き時代の終焉を見届ける者たちよ。
その網膜に、脳髄に、焼き付けるがいい。
約束された栄華は遠く、偉大なる神の庇護は失われる。
アヤ・ナヴィール亡き後、『新緑の瞳』を処刑することに教会は難色を示した。しかし、民の怒りと絶望は深く、一切の弁護を拒んで黙秘を貫いた僕の処刑を止めることはできなかった。
信仰は揺らぎ、ラディア神の威光は地に堕ちた。
それでいい。
僕の命を代償に、――あの娘を、解き放て。
微笑を浮かべて、処刑台の階段に足をかけた、その瞬間。
「リセル――!」
広場の一角で、火薬が爆ぜた。
四方八方から連鎖的に破裂音が上がり、風に巻き上げられた砂煙が視界を覆う。
騒乱のさなか、ぼうぜんと立ち尽くしていた僕の腕を掴んだのは、この国では珍しい蜂蜜色の手指だった。
「来て」
まさか。きみがこの場にいるはずがない。いてはならない。
何のために僕が。
また、きみは――僕の死さえ、否定するのか。
「な、ぜ……」
反論は喉に絡みついて形にならず、その細腕を、僕は、振り解けない。
「許されなくてもいい。やっぱり私はあなたを救いたい」
砂埃が晴れた刹那。真正面から僕を射抜く、瑞々しい生命力を湛えた『深緑の瞳』に――胸が打ち震えた。
《十》 深緑の檻
王都の門を守る教会兵は、怪しい二人連れを制することなく、黙って道を開けた。あの兵たちの中にいつかの牢番がいたのかどうか、僕にはわからない。
見逃されたとはいえ、いずれ追手をかけられる可能性は高い。アヤに先導されながら黙々と馬を駆り、ようやく小休止できたのは、国境を越えて少し経った頃だった。
慣れた手つきで馬の世話をするアヤの様子を見て、僕は思わず呟いた。
「馬なんて、乗れたのか」
「私はもともと山岳地帯の騎馬民族の生まれよ。……淑女らしくないって、怒る?」
「淑女らしい振る舞いなんて、王宮の外では何の役にも立たない。きみにはもう必要ないだろう。僕を側に置く必要も、ない」
「リセル」
「きみは一人で、どこへなりと行ける。温室育ちの足手纏いはここに置いて――」
「リセル。私を見て」
いつのまにか、アヤが正面に立っていた。
「あなたは私に怒っているんでしょう」
言い訳じみた僕の誤魔化しを、アヤは容易く剥ぎ取った。
「……自分が何をしたのか、わかってるのか」
「ええ」
「きみは、二度までも、僕の意味を奪った」
「わかってるわ。今度はちゃんと」
逃げることは許さないと言わんばかりの強い瞳が、僕を射抜く。王宮の奥で縮こまり、所在なさげに震えていた少女は、ここにはいない。
「聞いて。リセル・カエリス・アルヴァリス――私、昔のあなたと会ってたの。王宮に仕える奴隷の一人として。神殿の奥に迷い込んだ私を罰することなく、あなたは帰り道を指差した」
「覚えていない」
当時の僕は、現実から隔てられた夢の世界の住人だった。目の前に、すこしばかり変わった容姿をした奴隷がいたところで、印象に残るはずもない。
「そうでしょうね。あなたは私を特別だと思わなかった。緑の瞳を持った異民族の娘を、あなたはどこにでもいる民の一人として扱った。あなたの瞳だけが、ありのままの私を映してくれた」
そんなこと。
たかが、そんなことの、ために。
「ごめんなさい。私、自分のために、あなたを生かした。誰も信じられない環境で、ひとつでも縋りつける先が欲しくて、あなたの誇りを穢しながら、縛りつけた……」
口ごもるアヤの『深緑の瞳』から、目が離せなくなる。
まるで乾いた大地に力強く根を張る蔦に、荒々しく降り注ぐ雨のような、生命の水が、アヤの瞳を濡らしていた。
「お願い。許されようなんて、もう、思わないから」
あなたに生きて欲しい――と、僕の衣服を掴んで縋りつく指は、小刻みに震えていた。
僕はため息をついて、アヤの手にそっと触れた。振り解かれまいと一層の力を籠め、次第に美しい蜂蜜色を失いかけていく指先を、包み込むように。上から重ねて握る。
この手を振り解けない理由など、わかりきっていた。
認めてしまえば、死を選べなくなる。あの革命の夜から囚われ続けた、ただ一つの望みを捨てざるをえなくなる。だから、目を逸らしていた。自分の中に芽吹きつつある感情の正体を知りながら、ずっと蓋をしていた。
「言っただろう……きみの檻に囚われていたかったのは、僕の方だって」
空いた片手で、アヤの身体を引き寄せる。
外套越しに抱きしめた背中からは、子供のような熱が伝わってきた。
深く息を吸うたびに、腕の中で上下する胸からは、不規則な拍動が伝わってきた。
……生きている。
「りせ、る?」
この小さくあたたかな温度――不完全で、無様な生命の息吹を。
知ってしまえば、手放せない。
「アヤ。僕の許しを乞う罪なんて、きみには何もないよ――ただ、責任があるだけだ」
額を合わせて、アヤの瞳を上から覗き込む。
ゆっくりと見開かれていく『深緑の瞳』を、一体いつから僕は、この世の何よりも美しいと感じるようになっていたのだろう。
「二度までも、僕を生かした責任。とらないとは言わせない」
「っ……もちろん……今度はちゃんと、わかった上で望んだの……!」
まなじりに涙を浮かべたまま、花が綻ぶような笑みを浮かべた少女と、唇を重ねた刹那――その肌の色によく似た甘い芳香が、虚飾に塗れた肉体を内側から満たしていくようだった。
ラディア神よ、初めて、あなたに感謝する。罪深く穢れたこの地に生を受けたことを、彼女の側で生きる道が残されていることを、どうやら僕は喜ばしく思っているらしい。
天空の籠は遥か遠く。深緑の檻に身を預けて。
名もなき生命のひとつとなり、枯れた大地を踏みしめていく。
死がふたりを分かつまで。
fin.
初出:『身分差逆転ラブストーリーアンソロジー』(ズミ文芸)




